NPO法人
子どもの食育推進協会
風に吹かれて (2020年4月号 : 疫病・感染症 いま・むかし)
WHOからは「パンデミック宣言」が出され、わが国でも「オ-バ-シュ-ト」の恐れが指摘されています。また、米国と中国とは、「新型コロナウイルス」の「感染源」をめぐって、激しく応酬中です。中国は「ウイルスの感染源は特定できてない」「米軍が中国にウイルスを運んだ可能性がある」「新型ウイルスがどこから来て、どこに向かったのかをはっきりさせねばならない」(習近平)と責任を他に転嫁し、米国は、正式名称を使わず、「武漢ウイルス」「中国ウイルス」であると激しくやり返しています。昨年11月中旬には発生と見られ、12月には事態を掌握、その上で情報を隠蔽、500万人もの市民が武漢を脱出、成田空港に9000人が逃亡・上陸などの事実を総合すれば、事態は自ずと明らかでしょう。
さて、ダイヤモンド・プリンセス号のとき以来、多くの報道、情報が飛び交っていますが、これに過去の出版物を重ね合わせて整理すれば、おぼろげながらも、全体像を掴むことができるかもしれません。先は見えない状況ですが、ここで3月下旬までの情報を基にしながら、そのエッセンスを列挙してみました。
● 人類とともに古い歴史を持つ
BC401~404年のアテネ・スパルタ戦争の最中にアテネに疫病、市民の1/3が死亡、アテネ敗戦。1347~1351年、全ヨ-ロッパにペスト(黒死病)が流行、人口が大減少、明朝(1368~1644年)末期にペスト、天然痘で1000万人が死亡、清朝末期の1910年に満州のペストで6万人死亡、1918年の「スペイン風邪」については後述するが5000万人以上が死亡している。流行初期に出された 「ほぼ制圧」 (習近平、文在寅)などのセリフは、単なる政治上の保身PRに過ぎない。
● 「検疫」の語源
入国するときは I⇒C⇒Qだが、このQは「検疫」、英語では“Quarantine”という。もともとの語源は、中世ベネチアの「40日間」を意味する。疫病の発生地から来たり原因不明の病人が出た船は、都心部への着岸を許されず、ある島の一つに「40日間隔離」される。海洋都市で交易立国のベネチアでは、国境閉鎖より、疫病対策の確立が選択された。隔離地の環境は快適だったとも伝えられている。(塩野七生・文藝春秋から)
● 二人の日本人検疫官
・後藤新平(1857~1929年) 石黒軍医総監が見出して児玉源太郎に推薦した。期待通りの働きで、1895年、日清戦争からの帰還兵に対する検疫に従事した。
・野口英世(1876~1928年) 1899年5月に検疫官、10月、横浜に入港した「亜米利加丸」でペスト患者を発見して診療にあたり、大きな功績を挙げた。
● クルーズ船の扱い・便宜置籍船と旗国主義
ダイヤモンド・プリンセス号の扱いについては、日本政府の不手際を非難する報道も多いが、ここには、より現代的課題として、国際法の欠陥是正も含めた法整備の必要性が存在すると考える。
クル-ズ船の「船籍」は英国、「経営」は米国、「船長」はイタリア人である。公海の外航船上における主権は、「旗国」といわれる船籍国=英国が持ち、船内での法も「旗国」のものが適用される。また、領海内であっても、船や乗員の管理などの一義的な責任は旗国が負う。つまり、船内の運営、秩序の維持は、全面的に船長の責務である。今回の場合、日本の検疫許可⇒上陸を得るために船内条件を整えるのは英米+イタリア人船長の責任だ。(山田吉彦・東海大教授)
上陸許可後(陰性だったからといって)「公共交通機関で帰宅させた」などの不手際については、日本側も批判されて然るべきであるが、イタリア人船長の姿がまったく見えないことが不思議でならない。ちなみに、日本の外航船舶の船籍国は、6割がパナマ、そして、日本船籍は9%程度ともいわれている。
● 疫病伝播のルート・シルクロードから 「一帯一路」 へ
交通、交易の発達が疫病も運んだことは、常識である。
5~8世紀の天然痘は<シルクロ-ド経由で>欧州、中東、日本、
14世紀のペストは<モンゴル帝国の拡大で>欧州、中央アジア、
16世紀の天然痘は<新大陸発見、征服で>スペイン、米大陸、
19~20世紀のコレラは<インドから東インド会社の交易活発化で>中東、アフリカ、アジア、日本、
20世紀のスペイン風邪は<第一次大戦へのアメリカの派兵により>欧州、遅れて日本、
新型ウイルスは<中国から一帯一路に乗って>全世界に広まったと整理されている。
● 沈黙の交易
瀬川拓郎の「アイヌ学入門」に<沈黙交易>という言葉が登場する。「近世の千島アイヌは、北海道本島のアイヌと直接接触することなく物々交換を行っていました」「海辺には交易用の小屋がいくつか設けられている」と述べている。
「沈黙交易」は、古代ギリシア時代から、スカンジナビア、シベリア~インド、インドネシアなど世界中で多く地域に見られる。これは自己の属する集団以外(異人)との接触忌避との説のほか、赤坂憲雄は、「疫病回避のため」と見ており、アイヌは、疱瘡(=諸病の王)を忌避したのではないかと考えられる。
● 疱瘡の流行と「藤原広嗣の乱」
藤原不比等は、律令制度の基礎を盤石にし、藤原家が子孫代々政権の中枢を担えるよう「藤原四家」(南、北、式、京)を設立するのであるが、天平9年(737年)、天然痘の大流行により、4家4兄弟がことごとく死亡、聖武天皇が東大寺の大仏を建立するのもこれがきっかけだった。また、橘諸兄へと権力が移行したことに対して、弱体化した藤原一族の一人(孫)で九州に左遷された「藤原広嗣」が乱を起こしたのも、遠因を辿れば、大陸との交流・交易拠点の 「太宰府」 に天然痘が上陸して藤原4兄弟の命を奪ったことにあると思われる。
● 第一次世界大戦とスペイン風邪
アメリカの参戦により、軍事バランスは連合国側に有利となったが、最終的にこの戦争を終わらせたのは、総力戦、兵士と栄養、そして、インフルエンザだといわれている。栄養豊かで若いアメリカ兵が戦線に投入されたのだが、同時に、アメリカで流行のインフルエンザも持ち込まれた。
栄養不足のドイツ兵、経済封鎖と総力戦、インフルエンザの感染で、戦術的には優勢だったドイツが敗れた背景はここにある。ちなみに、戦争当事国は不利な情報を統制したが、中立国だったスペインでは情報を公開し、王族のメンバ-にも感染があったと伝えられて、あの不名誉な「スペイン風邪」の名がついた。
世界中の人類の1/3に感染し、死者は5000万人ともいわれ、日本は、1918年40万人、1919年35万人の合計75万人が死亡した。(速水融・歴史人口学事始め)
日本で感染が多かったのは ①医者、②教員、③鉄道員、隠れて④軍隊といわれ、とくに医者は、「患者駆込み→医者感染→他の病人に感染」とクラスタ-の中心になっている。この際は、「医療崩壊」を起こさせない対応が不可欠である。
その当時、国が推奨した伝染対策はいまとほとんど同じなのだが、「神仏頼みのためのお参り満員電車」がさらに伝染を広げたとの説もある。(添付の画像参照)
余談になるが、自衛隊の医師、看護部隊も動員されているが、感染予防対策は優れているようだ。ここには、「生物化学兵器への対応」に当たる専門家も多く、そのあたりの知見をもっと活用する必要があるだろう。また、海上保安庁設立の歴史には、水際防疫へのGHQ指令があったと聞いたこともある。
セントルイス・モデルとフィラデルフィア・モデル
全小中高等学校を休校に導いた安倍総理への評価は、時間が経ってからでないと分からない。「科学的根拠は?」「誰が決めたのか?」も後々の問題だ。<セントルイスとフィラデルフィア>モデルを知る誰かがいたのは確かだ。
そして、この政策に、世論調査で7割以上の高い支持率も示されていたという。欧米では激しく休校を実施しているし、指導者が責任を引き受けるものなのだ。
● 第二波の流行に要注意・収束と終息の違い
グロ-バル化の時代、「シェンゲン協定」によってヒト、モノの交流を「原則自由」とする欧州は、いまや、「パンデミックの中心」とまでいわれてしまった。
本来は、自由な往来を主張するドイツも、フランス、スイス、オーストリア、ルクセンブルグ、デンマークと5カ国の国境を封鎖した。
スペイン風邪当時の日本を振り返っても、朝鮮、台湾の境界はなかったから、翌1919年には、第二波の流行が起きて、35万人も死亡している。
「後流行」には、注意が必要である。収束と「終息」は意味が違う。
● 治療検査と「疫学調査」
専門家会議やPCR検査で話題になった「国立感染症研究所」はどんな機関か、ここは、1947年に設立され、ウイルスなど感染症の病原、病因の検索、予防・治療の研究を行うとあり、治療に繋げる検査機関ではない。感染症の頂上組織としては、クラスタ-・伝染経路など疫学上の正確なデータが欲しい。民間の検査・検定とは距離を置きたい、否定的傾向を持つ。生化学的製剤、消毒剤の開発、製造、検定、「ペスト・ワクチン」の開発と来ると、旧陸軍の「防疫給水部」(ex.関東軍731部隊)の流れを汲むような気さえしてくる。「情報、デ-タの独占」によって、他の研究機関へ強い影響力を行使できると考えてはいないだろうか。
● 「特措法」
「新型インフル特措法」に「新コロナウイルス」も加えられた。その概要には、
①2月1日から2年を超えない範囲を対象期間とし、
②政府が緊急事態を宣言した場合には、
③都道府県知事は、外出自粛の要請、施設利用制限の要請・指示、必要物資の売渡し・土地使用の要請、臨時医療施設の開設ができる
④議論が分かれていたが、「通信の優先的利用」も含まれている
基本的体系は、国家総動員法と戒厳令、野戦病院などの戦時体制に近く、「物動」(=物資動員)と「価格統制」の現代版で、オイルショック三法に似る。
ところで、特措法に対して、野党、とくに「立憲」は、なぜ突っ込んだ議論、歯止めをしなかったのか。反対議員、欠席議員に対して「党議拘束違反での処分」などとは、非民主的であって、むしろ「拘束」を解いて然るべきところだ。
日米開戦決議時の米国議会、「一票の反対」を思い出す。
(2020.3.23記)
風に吹かれて (2020年3月号 : 私のメモ帳・たな卸し その2)
● 西行法師とお伊勢さん
伊勢神宮の境内に佇んで、““何事のおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる”と西行は詠む。お伊勢さんは、ただただ神々しく、ありがたい。
● 平家物語と白根三山(農鳥岳、間ノ岳、北岳)
「平家物語」(巻の十・海道下り)には、戦さに敗れて捕らわれた平重衝が静岡の興津辺りから遠くの山々を眺める情景を、つぎのように記している。
毛越を過ぎて行きければ、北に遠ざかりて雪白き山あり。問へば甲斐の白根といふ
● 新潟(越後)平野の今昔
上流からの土砂が堆積して水抜けが悪く湖化した「ガタ」、明治の初期には120あった。土地改良、365日ポンプ排水で豊穣の地となったいま、胸まで水に浸る田植え、足踏み水車で排水、舟から稲刈りの光景は、まったく想像もつかない。
● 「朝晴れエッセー」
産経の一面に掲載される「朝晴れエッセ-」は、いつも印象深く読んでいるが、最近とくに感じ入ったのは、つぎの「父と柿の木」(2019年1月)である。
大病で幾度もの手術を経てきた父親が、生命の限りを知って、その息子に、遺言のようにいう。「なあ、あの柿の木だけは切らないでくれよな」と。
その理由はこうだった。“戦後のごく貧しいとき、自分は、近くに実っている柿を見て、「あれ欲しい」と母親にねだった。切なくなった母親は、なけなしの着物を持参して柿の木を所有する農家に交換を頼む。柿を手にした母親が立ち去ろうとしたそのとき、着物を点検した農家は、「なんだ、たったこれだけか」、そういって、ひとたびは手渡した柿の実のいくつかを取り返し、減らしたのだ。
右の拳をぐっと握り、涙をこらえていた母親の姿がいまも忘れられない。
自分が柿をせがんだため母親にこんな思いをさせてしまった。だから、ほかの木は切っても柿の木だけは切らないで欲しいというのである”(個人的な要約)
● 今西錦司 「生物社会の論理」(1994年)
“社会とは、つねにその内部に、それを構成するものとのあいだに、コンペテイションとコオパレ-ションという一見矛盾した作用をはたらかせつつ、それを介してなりたっている一つの構造であり、動的均衡体系である”
● 佐藤優 「官僚階級論」から その① 「公」とは
この本からの引用で、「公」について、まことに明確な定義があり、同感だ。
“多くの日本人は、「公の世界」というと、家庭や私的なことではなく、「国の領域」のことと思っている。「公共のため」が「国家のため」に限りなく近い意味で使われているが、まったくの誤解である。国家みずからの強制力をごまかすために使い出して変容した。「公共」とは、本来、国家に対する概念で、私的な要素が含まれている。<自分だけの世界ではないが、他人や社会と相互にかかわり合いを持つ時空間、なにかを共有する世界>とでもいうべきものである”(要約)
● その② カエサルのものはカエサルへ
1987年当時の私的な備忘録には、「カエサルのものはカエサルへ」について、ごく簡単に、「政教分離の考え」と、続けて、“信者が皇帝への税金を拒否して、神に納めようとしたが、イエスは、「貨幣にはカエサルの刻印がある。これはカエサルに納めよ」 といったとの説も”と書き残したが、しっくりこなかった。
いま、佐藤優の「官僚階級論」を読み返してみて、13年の後に目の鱗が落ちる思いがしている。この本の「デイナリオン銀貨」の項には、こうあるからだ。
“イエスを快く思わない律法学者や祭祀長は、イエスを、ロ-マ国家に従うな、税金を払うなと扇動する国事犯と見ていた。その証拠に、税を払うかどうかとイエスに質問する。彼らの企みを見抜いたイエスは、デイナリオン銀貨を持ってこさせ、「そこには誰の肖像と銘があるか」と聞く。銀貨には玉座に座す皇帝の肖像が描かれ、「皇帝テイベリウス、聖なる尊厳なる者の子」と銘が刻まれていた。
イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」といって、税金は皇帝(国家)のシステムに由来するものだから、国家に払えばよい。しかし、地上の王にすぎない人間を、あたかも神のように神格化することに、イエスは異議の申し立てをしている”
● おまけに 信楽焼の狸=八相縁起の象徴
信楽焼の狸は、編笠をかぶり、右手には徳利、左手に通い帳を持って立つ。
観光協会は、これを「八相縁起を表したもの」と説明するという。すなわち、
①笠・災難を避ける、
② 大きな目・周囲を見て気配り、
③ 笑顔・忘れずに、
④ 徳利・「人徳」の表われ、
⑤ 大きな腹・冷静、大胆に、
⑥ 通い帳・信用第一、
⑦ 例の金袋・=金運、
⑧ 太いしっぽ・終わりはしっかり大きく、
なのである。
(2020.3.3記)
風に吹かれて (2020年2月号:雑記帳のメモから)
コロナ・ウイルスの各地への伝播・拡散は、情報統制・非公開が日常茶飯事の中国の国家体制から見て、相当なものになるとは予想はしていましたが、それをはるかに上回る状況です。加えて、中国に飲み込まれてしまったWHOの対応がまことに緩いものだから、世界全体としての調和ある対策が取りにくく、各国は、自国独自の対策を取らざるを得ません。習近平の国賓での来日を控えた日本の姿勢も問われています。余談になりますが、2月4日の産経新聞には、ベタ記事でしたが、「秋田犬」の里である秋田県大館で、「1月31日以降は、ヒトが秋田犬に触れることを禁じる」措置がとられたそうです。
さて、2月号は、雑記帳のメモとコメントを掲載しました。(2020.2.5記)
● 台湾人の誇り
香港問題に危機感を持った台湾総統の選挙も終わった。コロナ・ウイルス肺炎騒動のなかで、政治・外交の戦いは、一見、しばしの休戦にも見えるが、WHOがコロナ・ウイルスの検討に台湾を加えない、マスクを送らないと「武漢に滞在の台湾人は帰さない」としたなど、底流では続いている。
さて、台湾の若者が自らと台湾の位置をどう考えているか、ふと昔の経験を思い出した。10年ほど前のドイツ旅行でのエピソ-ドである。ミュンヘンから南バイエルンへの車中で、われわれ夫婦が若い男女と同じコンパ-トメントになった。中国語の会話を聞いていて、こちらから、”Are you Chinese ? ”と尋ねたところ、その答は、”No , We are Taiwanese.“ ナルホド、李登輝総統の「まともな教育」が、台湾の若者に誇りを回復させたことが見て取れる。
● 浜矩子教授の山本太郎評
「文芸春秋」の2月号に、山本太郎が「“消費税ゼロ”で日本は甦る」という政策論文を寄稿している。その中に、<ある地方に行った時、駅前で流行っているラ-メン屋の店主がこんなことを言ったのです。「周りからは儲かっていると言われるけど、トンデモない。もう2年ほど消費税を滞納している」・・・
行列ができるラ-メン屋ですら、消費税が払えない。これが今の日本の実態です>、このようなくだりがある。
納得してはいけない、説得されてはいけない。ラ-メン代に「上乗せされ、支払われた消費税相当額」は、いわば、店の所得ではなく、「客からの預かり金」なのである。これを税務署に納めないということは、<着服>、<横領>ともいうべき行為で、とても同情すべきことではないだろう。
同志社大学の浜矩子教授は、週刊誌の取材に応じて、こういったという。
「“緊縮財政の必要性など一切考慮せずに大盤振る舞いの財政支出を展開する。そのことによって国家主導の経済体制を構築する“という国威発揚型国家観に根差している」「ムソリ-ニやヒトラ-が軍事目的と失業対策を兼ね高速道路を整備した歴史(全体主義)を彷彿とさせる。」まことにごもっともである。
「一人でも反対者がいたら橋は架けない」(ポピュリズム)と「懐具合を考えない財政出動」で東京都に財政破綻をもたらした美濃部亮吉知事の“二の舞にならなければいいが“と思う。そういえば、美濃部教授は、「退官講義」の締めくくりで、「ファッシズムの足音が聞こえる」とおっしゃっていた。
● デラシネのゴ-ン
これは、産経新聞からの引用(孫引き)である。「モンテ-ニュの言葉をゴ-ン被告にささげておこう。<落ち着かぬ ・ がつがつした ・ いそがしそうな ・ 金持ちは、ただの貧乏人よりも惨めなように思われる>」
● 待合室
旅の楽しみの一つに「待合室の掲示板」の見学がある。昨年秋に白新線の豊栄(とよさか)で目にした掲示板は、町の俳句同好会からの投稿と思われる。“酒二合 秋一日を しめ括る 藤雄” “雪囲う 手間賃わずか 酒二合 好”いずれも、ホノボノとしてよい句であった。
お酒の句が出たついでにもう一つ。これは、妖怪博士といわれた東洋大学の創始者「井上円了」の狂歌である。
“朝はいや、昼は少々、晩たっぷり、とはいふものの上戸ではなし”さて、この<少々>、<たっぷり>とはいかほどか、昼は一合、晩は二合だろうか?
● 長野県人と交通安全意識
JAFの調査(2019年)によると、「信号がない横断歩道では停車して、歩行者を優先させる」という交通ル-ルを最も守っているのは長野県人だということである。(全国平均17%、長野県69%)
「さすがは教育県」と持ち上げられているが、さあ、どうだろう?経験からいっても、<信号があるにもかかわらず守らない、交差点でちょっともたつくと必ず右折車が優先スタ-トする、制限速度10km超ぐらいだと追い越される>など、危険運転の常習犯は、松本ナンバ-だ。「松本の人は、自分を、信州人とは思っていても、長野県人とは思っていない」のかもしれない。 (了)
風に吹かれて (2020年2月緊急号:ゴーンの逃走)
カルロス・ゴ-ンの国外逃亡から2週間、1月8日の記者会見(レバノン)で新事実が明らかになるかと期待されていたが、抽象的で情緒的な「私の主張」、あるいは独演会で拍子抜けだった。会見を受けた欧米のメデイアも冷ややかな報道にとどまっている。また、日本メデイアで入場が許された(質問の機会が与えられた)のが、朝日新聞、テレビ東京、小学館(週刊ポスト?)と伝えられるので、その辺りからも、会見の意図は、なんとなくわかろうというものだ。
また、外国メデイアによると、この逃亡劇には10~20憶円の費用がかかったという。やはり、裁判所の保証金算定は甘かったというべきだろう。
そこで、これまでの報道をもとに、状況の整理と若干のコメントを行いたい。思わせぶりな事前リ-クもあり、今後の展開には要注意である。(2020.1.13記)
● Gone to the better land (フォスター Old Black Joe から)
まったくもって、「スパイ映画」もどきのことが現実に起こるとは、却って感心してしまう。昨年末、人の往来が激しいなか、人混みに紛れて、移動制限つき保釈中のカルロス・ゴ-ンは、レバノンへ逃走した。
これまでのマスコミ報道を整理すると、つぎのような状況がわかってくる。
① 作戦は、数か月かけて用意周到に計画され、その実行は、グリ-ンベレ-(アメリカ軍の特殊部隊=降下部隊)の経験者=プロが行った。
② 逃走経路は、自宅(徒歩、タクシ-)→品川(新幹線)→新大阪(タクシ-)→ホテル(タクシ-)→関西空港(プライベ-ト・ジェット)→トルコのイスタンブ-ル(PJ)→レバノンのベイル-ト
③ 輸送手段の特徴は、大型音響機器を収納するケ-ス(ブラックボックス)に隠れボンバルデイア社PJの貨物室へ搬入、その後は客席へ入ってくつろぐ。(ブラックボックスの底には、空気の取入れ口とキャスタ-がついていた)
④ 作戦は、事前の下見、シミュレ-ション、予行演習が行われた気配がある。(PJの貨物は関空ではチェックがない。ボンバルデイア機は貨物室と客室の通行が可能)
⑤ 自宅からの脱出時には、人の目を避けるため、あらかじめ、日本の弁護人が<日産自動車派遣の警備会社>に対し<刑事告訴>を警告、脅して警備員を引き上げさせた。結果として、脱出環境を整備に協力していた。
かくて、関係者に多額の金をばらまかれたと思わしきレバノン政府からは、この「箱入り息子」は温かく迎えられ旅を終える。年の暮れ、まさに、<鐘=金とともに、彼はゴ-ンと、かの世・Better landへ>向かった。
● 平和ボケの日本 メンツは丸つぶれ
日本政府は、「保釈中の逃走罪」なるものを<これから>「法制審議会」に諮って制定する方向とも報じられる。だが、まず急がれるのは、<日本=島国=国外逃走の恐れは少ない>とする「一国平和主義からの脱却」で、つまり、他の犯罪先進国?と同様に、GPS装着の義務化による状況捕捉 などだ。
まあ、一番バカを見たのが日本の弁護団、とりわけ、<無罪請負人>として名をはせた「弘中弁護士」で、とんだピエロの役回りを演じさせられた。このことは、「わたし知らない」「辞任します」で済む問題ではなかろう。
それでもなお、もう一人の高野弁護士は、「違法かもしれないが、直ちにこれを悪いことと全否定はできない」などと「ポン助ぶり」も見せている。多分だが、これらの弁護人が保証する保釈要求に対して、裁判所も慎重になるだろう。
3時間近い新幹線のグリ-ン車、車掌は、なぜ本社や警察に通報しなかったか、「そんな、ありえない」と、こちらも、日本らしく、<平和ボケ>に陥っている。
● 海外広報を急げ
明らかに日本の国益は侵害されており、ゴ-ンの会見とレバノン政府の釈明には、断固かつ国際的に大いなる反論を継続的に行うべきである。ゴ-ンが英仏、アラビア、ポルトガルの4か国語なら、日本は、10か国語で、しかも、フォ-リン・プレス・センタ-の場で広報しないと国際世論は流される。
<合法的に入国した>とのレバノン政府表明は、<違法に出国した事実>を裏返し的に表している。ゴ-ンのパスポ-トに<適法出国のスタンプ>はない。一説では、レバノンにはかなりのODAも投じられているとか、この取扱いも気になるところだ。
● The Ballad of The Green Berets (1966年)
プロテスト・ソングが大流行していた時期、珍しくベトナム戦争を支持してヒット・チャ-ト上位を占めていたアメリカ軍讃美の歌に「グリ-ン・ベレ-」がある。この時期、人々は、悲惨で大義のないベトナム戦争に抗議すると同時に、失われたアメリカの誇りをどこかに求めていたのかもしれない。
歌詞の一部を掲げたが、記憶のよるもので多少の間違いはご容赦願いたい。
“ Silver wings upon their chests , These are men America’s best .
Fighting soldiers from the sky , The fearless men of the Green Berets .”
風に吹かれて (2020年1月号:初春の雑感)
2019年の購読ありがとうございました。新年もよろしくお願い申し上げます。 1月号は、昨年の「メモ帳」から「雑感」をまとめました。(2019.12.24記)
● 少子高齢化を実感!
11月の午後、上越新幹線での光景である。新潟駅のホ-ムでは、2歳前と覚わしき男児とその母親が、祖父母に見送られ、東京行きの列車に乗り込む。男児は祖母にハグされ、いかにもかわいらしい。そして、2時間余の乗車の後、東京駅の到着ホ-ムで、こちらの祖父母の出迎えを受け、ここでも、ふたたび、祖母にハグされるという心温まる光景に出会った。
思うに、新潟は母親の両親、東京は父親の両親なのだろう。孫1人に4人の祖父母、少子高齢化を実感させられる列車の旅であった。
● ああ、聞き違い、勘違い ‐ 大学入試と大相撲九州場所
勤務する新潟の大学では、10月以来、毎月、多い時は月に2回、入学試験が行われている。成績優秀者には「特待生制度」が適用されるのだが、この春は、これ加えて、「スポ-ツ特待生制度」が設けられる。既設である自転車部のほか、新たに「ラグビ-部」、「柔道部」についても特待生を選びつつあり、このところ、筆者の頭の中には、頻繁に「特待生」の語が浮かぶ。
大相撲九州場所の中日の中継で、「特待生に勢い」(トクタイセイ ニ イキオイ)と聞こえてきて、一瞬、「なんじゃ、こりゃ」となってしまった。よく考えれば、<旭大星に勢>の取組みだったのである。蛇足になるが、「宝富士」の場合も、「宝くじ(タカラクジ)」と聞こえることがある。仕事のせいか、加齢のせいか。
● 香港の抗議行動は、まるで 「戦国時代の戦い」
香港の抗議行動は、収拾の方向が見えない。「区議選での民主派勝利」で、かえって中国の圧力は強まるだろう。少し前の「人民軍が自主的・清掃活動に出てきた」とのニュ-スも、「朝鮮戦争における志願した中国人民義勇兵」の古傷を彷彿とさせて、まことに不気味である。
学生などデモ参加者の対抗手段を見ていると、忍者が使った「星形の鉄菱」(太い針金製)を道路上に播いている。古典的な武器だが、交通の妨害には効果がありそうだ。事態が進むと、「いずれは手裏剣、火煙玉なども使われるのでは?」と思ったりして、あまり冷やかしてはいけないが、中国の軍事介入の恐れは大いにある。ことは、香港にとどまらず、影響は台湾にも及びかねない。
もう一方の大国アメリカは、どう出るつもりなのだろうか、心配である。
● 志位委員長の日本語に違和感が・・・
「桜を見る会」は、1881年に、不平等条約を改正するために皇室が主催した「観櫻会」(歓櫻御宴)の流れを汲んでいる。目的は内外に日本の国威・品格を発揚することで、吉田内閣の「桜を見る会」も、戦後日本の国際社会への復帰行動の一環だったから、現状の運用は、本旨を外れ、いささか度が過ぎている。
さて、話は変わり、本件に関する野党幹部の発言(日本語)に触れる。「日本共産党」の委員長は、「首相による血税私物化は絶対に見逃せない」(11/10)と ツイ-トしたが、「血税」は、①徴兵による兵役、②あまりに過酷な重税のはずで、こんな言葉を気軽に使うようでは、なんだか、共産党も「平和ボケ」の気がする。
● 韓国の原発処理水は「汚染水」?
原子力発電に伴う「処理水」のうち、トリチウムは除去できない。仮に海洋放出する場合は、基準濃度以下のレベルに希釈する。これは、国際常識であり、韓国の主要な原発である「月城原発」は、1999年以来、累積の数字で、6000兆ベクレルを超える放出を行った。日本の「福島原発」は、放出はしていないし、トリチウム貯留量は1000兆ベクレルと<韓国の1/6>である。 行為の実態と客観的数字は、冷静に見て判断しなければならない。
● 車内販売の変更は労働強化?
JR中央線車内での弁当、ホットコ-ヒ-、アイスクリ-ムの販売が取止めになった。問題はその後の対応で、運ぶ量が減ったためか、カ-トも廃止され、販売員は荷物を担ぐ。いかにも重く腰に悪そうだ。とんだ労働強化ではないか。
● AIでよみがえる美空ひばり
NHKテレビC-②で放映・再放送された番組は、とても興味深いものだった。
“昭和の歌姫”「美空ひばり」をAIでよみがえらせ、新曲を歌わせるという
企画で、作詞、作曲、映像、演奏、音声、語り、衣装などあらゆる関係者が
共同作業し、かつ、AIは学習を繰り返して、ついに30年ぶりの新曲を歌った。会場のオ-ルド・ファンは、ひたすら涙である。なかなか納得ができなかった「語り」の部分も、幼かった息子・和也のために吹き込んだ童話テ-プがカギとなって、「ひばり独特の味・節」を除けば、「ひばり」は再現するかに見えた。
新曲は、秋元康の作詞で、「あれから」。<お久しぶりです>の語りで出た後、 “あれからどうしていましたか ずいぶん時が経ちましたね あの時の歌をいまでも歌ってしまいます 振り返ればいい時代でしたね”で、曲自体は、なかなかよい。
風に吹かれて (2019年12月号:安曇族の由来、安曇野の境)
安曇野・穂高も冬になりました。11月18日には、外部の水道不凍栓を閉めて、室内の蛇口は全面開放し、冬への備えをして「店仕舞い」にしました。
西山では、常念岳の北斜面がわずかに白く、大天井から燕岳への尾根にも雪が見えます。「あずさ」から遠望する南アルプスは、鳳凰三山と甲斐駒の裏にある日本第2位の山「北岳」(3192m)の山頂部が白く光り輝いて感動的です。
さて、“なにを思案の有明山に 小首かしげて出たワラビ”これは「安曇節」の一節ですが、信濃富士ともいわれる「有明山」は、古くからの伝説も残っており、常念岳とはまた違った意味で、<安曇野の象徴>です。
※ 画像① 黒いのが有明山、雪をかぶっているのは「燕岳」
信濃安曇族の祖「安曇連比羅夫」比羅夫像がある穂高神社は、祖神を「穂高見命」(綿津見命の息子)としている。安曇連比羅夫は、いわば海の将軍であって、天智天皇の元年(662年)に、船団170隻を率いて、百済王を朝鮮半島に護送、唐・新羅の連合軍と戦うも、武運つたなく白村江に敗れ戦死したとされている。
※ 画像② 穂高神社に祀られている「安曇連比羅夫」の像
この敗戦以来、唐・新羅の侵攻に備え、大和朝廷は、都を内陸の近江大津に
移した。(667年)その後、壬申の乱(672年)を経て、近江京は飛鳥浄御原に
遷都される。歌人の柿本人麻呂は、この近江の都を懐かしんで、こう歌った。
“近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに古おもほゆ”
穂高神社 その社格は、昔風にいえば「国幣小社」と高いもので、山岳地域に立地していることで、「日本アルプス総鎮守」とも称され、国道の神社入口にはそう記した看板もある。海族の神社らしく、裏門付近には、神船の「穂高丸」が祀られ、9月27日(比羅夫戦死の日)には例大祭「御船祭」が執り行われる。
海族らしく、5~6台の山車の上には大きな船形が飾られ、最後はぶつけ合いだ。
※ 画像③ 御船入りの風景(矢原神明宮にて)
安曇族の発祥の地 九州筑紫の志賀島あたりとされているが、<海民>、海人、海族は、船を使って、広くダイナミックに活動し、全国各地で水運の地に拠点を設けてきたと思われ、水運に便利な地には、いまもその名前が残されている。
全くの内陸である安曇野に入ってきた理由は、6世紀の「磐井の乱」に敗れて、筑紫から信濃へと逃げ込んだとの説もあり、「平家落人の里」のようで面白い。
その逃げ道だが、おそらく、「塩の道」と重なる「姫川沿い」ではないだろうか。
最終到達点はどこか、そのヒントは、この後に記す「食べもの」にあると思う。
安曇野の境 「安曇」という言葉は古くからあったようだが、安曇「野」は臼井吉見の小説「安曇野」で定着した。本来の地名では、北安曇郡、南安曇郡で、「野」は付かない。なお、南安曇郡地域では、平成の大合併で町・村がなくなり「安曇野市」のみとなって、郡名は消えた。残っているのは、「北安曇郡」で、小谷村、白馬村、松川村、池田町の4町村で構成されている。
・是より北・安曇野 安曇「野」の地理的な境目はどこか、視覚的には、梓川がそれに当たる。大糸線は、松本を出て、3駅を過ぎ、梓川の鉄橋を渡ると、次の駅が「梓橋」、ここには、「是より北・安曇野」の看板が立っている。この駅は、安曇野らしくホ-ムに数本のリンゴの木があり、花や実で観光客を楽しませる。。
※ 画像⑤ 大糸線「梓橋駅」の標識
・エゴネリ さて、「もう一つの境目説」は、海の民が食べる「食品」での分類だ。
佐渡の名産に「エゴ・ネリ」(日本海産の海藻をトコロテン状にした食品)がある。穂高のス-パ-でも販売されているが、これを食べる習慣があるのか、ないのかで、<安曇・非安曇>の線引きが出来るといわれる。
日本海の海産物でも、イカは、ボッカが運ぶ塩に漬けられて北安曇に入り、「塩イカ料理」に調理される。その塩の道は、松本が終点とされている。
エゴも、姫川沿いに「塩の道」を南下したのだろうが、海藻を食べる習慣については広がらず、松本にはエゴ・ネリを食べる習慣がないという。やはり、梓川の辺りで、海人「安曇族」南下は終わったものと考えられないだろうか。
なお、「塩イカ料理」は、太平洋岸からの塩(南塩・上り塩)との関係で、中信・南信全域に普及しており、「エゴ・ネリ」の食習慣だけが地域限定であるとの状況から推定して、信濃に入った安曇族の終点は『安曇野』だったのだ。
ちなみに、福岡には、「おきゅうと」と称する同種の食品がある。一族発祥の地筑紫・志賀島から、「乾燥いご草」を携えて、安曇族は信濃へやって来た。
※ 画像⑥ ボッカ(歩荷)の荷物(白馬の博物館)
※ 画像⑦ 佐渡産のエゴネリ(新潟駅にて購入)
各地に残る「あづみ」の地名 「あづみ」(安曇の文字から転じ「アド」も)の付く地名とその仲間、あたみ、あくみ、これをさらに「わたつみ」(海神)に広げると際限がないのだが、北から日本海側の海岸線を南下すると、温海町(山形)、安曇川町(滋賀・琵琶湖畔)、安曇川御厨(若狭から京都へ)、安曇郷(鳥取)、安曇郡・安曇郷(福岡県・新宮、和白=ここは発祥の地)と続いている。
瀬戸内海に入って、兵庫(摂津)安曇寺、大和に安曇田庄(大坂への水運)、太平洋岸を上れば、愛知に渥美半島、伊豆に熱海、そして、福島は、猪苗代湖の東に「磐梯熱海(温泉)」がある。ただし、こちらは頼朝の家臣「伊豆熱海」にゆかりの伊東祐長の支配地だった。ともかく、信濃の『安曇』だけが<全くの山の中>なのであって、逃げ込み説はもっともらしい。
碌山美術館 終わりに小話を一つ、穂高神社の近くに、彫刻家の「荻原碌山」を記念した美術館がある。この建設に当たっては、地元ばかりでなく、広く信州出身の人、ゆかりの人に浄財が求められ、多くの協力があって、実現した。
ときの穂高町長は、中央で成功した信州人を訪ねて上京、要請したが、その際、岩波書店の創始者「岩波茂雄」は、<居留守を使って協力しなかった> と臼井吉見が、「安曇野」で語っている。なるほど、岩波茂雄は南信の諏訪出身で、穂高のある中信とは仲が悪いのか。本に書かれては「男がすたる」というものだ。
なお、仲介の労を執り、多くの人を紹介して援助してくれたのは渋沢敬三であったとも記されている
風に吹かれて (2019年11月号:交通・鉄道・輸送・国防)
台風19号の被害で、中央線「あずさ号」の運休が続き、自宅庭の柿の収穫に出かける日程も大幅に遅れています。安曇野では、いまごろは野沢菜の成長期、甘みを増す<降霜を待つ>風情でしょう。今回は、交通問題を取り上げました。 関電高浜原発の金品授受は、「越後屋、おぬしもワルよのう」“菓子折の底に金貨”<黄門様もビックリ>の大珍事で、おそらくこれは流行語大賞ものでしょう。
● 胎内市のデマンド・タクシー
ライドシェア-型の「デマンドタクシ-」が普及してきた。新潟・胎内市のデマンドタクシ-は、その名を「のれんす号」、予約は1週間前から1時間前まで、乗り降りする場所の限定はない。9人乗りジャンボ・タクシ-か、または手空きのセダン(通常のタクシ-車)で、料金は一律300円である。利便性、低価格、有効利用などの点で好評である。ただ、タクシ-会社の運転手にとっては、売上げが小さいので「もっと普通のタクシ-を使ってほしい」との声もある。
(注)一般的には、市町村が、①長距離にならないよう走行エリアを細分化し、②立ち寄り先も、病院、ス-パ-、金融機関、駅など生活上の不便を補うものに限定することが多い。
● 国防と鉄道 新京成線と鉄道聯隊
このところ読んでみてとても興味深かった本の一つに、「ふしぎな鉄道路線」(竹内正弘:NHK出版新書)がある。明治時代の鉄道建設は、経済上の利便より国防が最優先で、①海岸か内陸か、②国営か民営か、③相互の乗り入れをどうするか、④戦時の軍事的利用のため民間利用とどう調整(制限)するかなどが議論され進められてきた。はるか昔から、洋の東西を問わず、戦争とは不可分だった。ちなみに、“汽笛一斉、新橋を”で出発した鉄道「最初の」国家任務は、<西南戦争のための兵隊や武器を横浜港経由で九州へ運ぶことだった>のだ。
<なぜ新京成線は曲がりくねっているか>との疑問には、「新京成線」が軍事訓練演習線だったのが背景にあるとの指摘は、とくに面白い。①鉄道敷設部隊だから、訓練のため敢えて種々の条件を作った、②障害を避け効率路線とするため地形どおりの緩やかな勾配に沿わせた、③大隊規模の演習線基準=45kmを確保するためにわざと遠回りをさせたなどと解説されていて、どれも一理ある。
● 日露戦争とシベリア鉄道 単線輸送の兵站
戦争になりそうなとき、戦争になったときには、どれぐらいの軍需物資が、どのような輸送方法で、どの方面に輸送されているか、これからどうなるかを
予想し、見極めることが不可欠となる。
ノモンハン戦争では、独ソ接近の兆しに気づいたモスクワ駐在武官の土居明夫大佐が、東京への報告の途上で、徹夜でシベリア鉄道の輸送状況を観察する。
満蒙国境へと「銃砲、非常に大きな大砲、80門を中心に、戦車・機械化部隊が少なくとも2個師団は送られている」と警告するも無視される。これでは初戦から負けも同然だ。(田中雄一 「ノモンハン-責任なき戦い」 : 講談社現代新書)
また、日露戦争では、日本は、「シベリア鉄道は単線で輸送力に限りがある」と思い込んでロシアの兵站を予想した。実際には、単線でも「到着貨車は現地廃棄する」一方通行方式で物資は続々運ばれ、彼我の戦力差は顕著になる。
最重要の「兵站」を軽視し、日本陸軍は、インパ-ルでも、同じ過ちを犯す。
● 中世の悪党は水運を支配する?「婆娑羅太平記 - 道誉と正成」から
安部龍太郎の著である。後醍醐天皇と足利尊氏の戦いで、後醍醐側に味方した奥州の北畠顕家は、12月22日に多賀城を出発、25日に鎌倉を攻め落として、28日には遠江の橋本宿に達し、京都を目指した。この超スピ-ド移動の背景には、楠木正成一族の者たちが、兵糧、馬草、薪などの兵站を担っていたことがある。
悪党」といわれる正成たちは、兵力だけでなく金貸し、酒造り、水運など「重商主義的」経済活動の担い手、やり手でもあり、各地に商売の拠点を置き、情報にも通じていた。なお、最終的には尊氏についた佐々木道誉は、琵琶湖の水運を押さえ、日本海と瀬戸内海、場合によれば、中国との交易も行っていた。
(注)日本海は、「国を隔てた」のではなく、「国の交流を盛んにする」役割を果たしており、江戸の鎖国時代も同じであった。対馬と本土より対馬と朝鮮半島の方が近く、密貿易も、倭寇のようなものも日本-朝鮮共同のものであった。(宮本常一、網野善彦)
● 瀬戸内海水運 ‐ 徳仁親王
以下は、「水運史から世界の水へ」(NHK出版)にある「瀬戸内海の水運」から、輸送業者と海賊について述べられた部分の要約である。
… 荘園年貢の輸送に従事していた「給田(給料)とり」の輸送業者は、荘園制度の変質とともに、商人的な色彩を帯びた輸送業者として成長し、その後、大型船を持ち配下に輸送業者を抱える船主とそうでないものに階層が分化していく。… 港に立ち入るときには、関所に寄港して関銭(関税)を支払う義務を負い、交通の阻害要因になっていた。ちなみに、15世紀半ばの淀川沿いには400もの関所があった。また、多島海である「瀬戸内海」は、海賊の住処であり、輸送業者には脅威であった。海賊の中には、中国や朝鮮半島沿岸部まで行き、略奪をする者もあった。これが倭寇といわれる集団である。
(2019.10.25記)
風に吹かれて (2019年10月号:人こそ見えね、秋の来て)
“人こそ見えね、秋の来て。庭の白菊、うつろふ色も、憂き身のたぐひと哀れなり”
およそ10年ぶりに、謡曲「紅葉狩」のおさらいをしました。この曲には、「鬼女」が住むという戸隠山の秋が絵のように詠われていて、何とも美しいのです。また、男の身としては、袂にすがる紅い深き顔(かおばせ)からの誘いを断り切れない平惟茂には、当然のこととはいえ、同情と納得を禁じえません。
そして、10月の安曇野で、稜線を赤く染めて暮れ行く常念山脈を眺めるとき、秋の到来は肌で実感され、涸沢カ-ルでの三段染めの景色も心に浮かびます。
一方、新潟・胎内の大学キャンパスですが、5月17~18日に田植えした稲を9月26日に全学総出、淑徳学園も加わって収穫しました。11月3日の「橙和祭」(大学祭)を控え、学生たちは準備に余念がありません。庭で育てた「パンダアズキ」、「大納言小豆」も収穫の時期を迎えています。
遠望する「飯豊」の山々に初雪が来る日もそう遠くないことでしょう。
● アシナガバチに要注意
9月初めのこと、穂高の自宅で庭仕事をしていたところ、剪定枝の中から飛び出したアシナガバチに、軍手の上から刺されてしまった。前の経験があるので、軽く消毒しただけで放置、油断していたら、翌日には、刺された辺りから赤く腫れてきて、熱も出る。右手は、まるでボ-ル玉のようだ。「これはいかん」とばかり、あわてて近くの穂高病院に駆け込んで、<医師による消毒→30分間の点滴→塗り薬・内服薬の支給→4日間の服用>になった。聞けば、スズメバチに限らず、「アシナガバチでも、二度めはアレルギ-が強くなるので要注意とのこと」、なめてはいけない、甘く見てはいけないのです。
帰京後に読んだ「農業共済新聞」のコラム「防風林」には、<攻撃性が高く刺傷件数が多いのはスズメバチだがアシナガバチも強い毒性を持つ仲間がいる>と書かれてあったが、いまとなっては「後の祭」=“too late”だ。加えて、<蜂の死傷事故による死亡者数は毎年20人前後>と恐ろしい解説もある。
● 柳田國男ふたたび
安曇野・穂高に滞在中には、臼井吉見の「安曇野」を読み返すことが多い。著者も述べているとおり、全5巻のどこから読んでもいいようにできているが、
頻度が高いのは、最終篇の第5部(戦争直後の完結篇)である。
先月号では、この中から「教育勅語」に関連した柳田の考え方を紹介したが、これに引き続き、柳田に関する逸話をもう一度とり上げたい。雑誌「展望」の
編集者になろうとしていた臼井が、戦争直後(1945.10)に成城の柳田を訪ねたときのエピソ-ドである。
・「烏勧請の事」
ユ-モラスだが、根は深刻な指摘である。ゴルフのプレ-中、カラスがボ-ルをくわえていってしまうことがよくある。柳田は、「この現象の発生地は島原半島にある」という。島原地方では、白い餅を空中に投げて鳥に与える習慣があった。この種の習性は、形を変えて日本のほかの地方にもあるのではないかと推理し、各地に残る「烏祭り」を調べ、烏にも「国史」があると結論づける。“烏たちの間には、歴史家がいないし、記録もない。人類のうちにだって、九割以上は、烏同様、記録など伝わってはいやしない。それを歴史がなかったの如く、考えることはもう許されない”
・戦争直後の意思・決意
柳田は、「今度といふ今度は十分に確実な、又しても反動の犠牲になってしまわぬやうな民族の自然と最もよく調和した、新たな社会組織が考へ出されねばならぬ」という。
・ぜひやらなければならないこと
国民固有の信仰、人の心を和げる文学、国語の普通教育であるとしたうえで、それぞれを説明する。
① これがどんなふうにゆがめられているか、証拠をあげて明らかにしたい。
② どんな貧しさと悲しみのなかあっても、ときおりは微笑を配給してくれるような、優雅な芸術が日本にはなかったか。芭蕉の俳諧などはそれだった。
・国民の普通教育
「自由には(教育の)均等が伴わなくてはならない。皆が(この戦争中、)一種類の言葉だけを唱え続けていたのは、…これ以外の考え方、言い方を修練する機会を与えられなかったからだ。こういう状態がこれからも続くならば、どんな不幸な挙国一致がこれからも現れないものでもない」
教育格差の是正が、自由な考え、表現、発言、行動を保証するというのだ。
● 日韓問題 ③
・ユニクロ
韓国に展開する「ユニクロ」は、187店舗、5000人を雇用、2013年~18年、アパレル分野でのシェア-は第1位、直近の売上高は1000億円という。
<不買運動>がいつまで続くのか見ものである。なお、韓国の学者によれば、こうした不買の動きは最近のものではなくて、200年以上も前からあったという。
・日本とのGSOMIAの破棄
韓国に対して、アメリカは本気で怒っているようで、今回は明確な反応を示した。「安全保障」に対する感覚が、韓国とはまるで違う。
日米両国との友好・自由主義体制から離れ、北朝鮮と組んで中国の傘下に入る、はるかな昔の「地政学的体制」への移行が見えてきたように思える。
米韓合同軍事演習も、実戦を伴わない<シミュレ-タ-・ゲ-ム>だったし、今までオ-プンだった在日米軍基地内の見学も<韓国人の入構拒否>に変わるという話も伝わって、アメリカが韓国を見放す時代がやって来たかのようだ。
・姉妹都市交流にも暗雲
8月19日付の日経新聞によると、日韓の姉妹都市数は162であるが、広域の自治体(特別市、道など) 17のうち文在寅の革新系は14を占めているそうだ。その傘下にある姉妹都市の行く末も大いに心配で、ソウル、プサンの「戦犯企業条例」の制定が、各地に伝染しないことを望みたい。
・法務大臣候補「曹国」の先手を打った記者会見
法相の強行任命と検察庁による妻や親族の起訴・立件へ、検察側と大統領府は大きな勝負に出たかに見える。
まあ、ことは数ヶ月以内には決着するであろうから、状況を見守るしかないのだが、ここでは、それに先立つ曹国の記者会見についての評価を述べたい。
テクニカルな面では、したたかで見事なやり取りという印象だった。①時間無制限でとことんやるぞという姿勢、②揚げ足とりやヒッカケ質問に乗らない、③法的に問題はない、その事実は知らないを11時間続ける忍耐力と答弁技術、これらは一目置かれる見事さだった。
そして、広い会見場を映した中継は、時間が経つにつれて閑散としてくる会場の風景を作る、<クライシス管理、結果誘導>の典型だ。それにしても、終盤戦の韓国メデイアの若手記者、スマホからの指示での質問は全く迫力に欠けている。自分の材料、意見、質問は持ち合わせていないのだろうか。
曹国は、「タマネギ」と称されるが、若いころから政治に入れ込んでいたので、彼には、<ポリ・フェッサ->=poli-tical + pro-fessorなるあだ名もあったとか。
● 「モト」は民主党
9月7日の「産経抄」が、立憲民主と国民民主の会派合流(衆117人、参60人)を、まるで韓国の「共に民主党」だと揶揄していたが、日本風では、「トモに」ではなく「モト(元)は民主党」の方がふさわしいと思うが。
(2019.9.27記)
風に吹かれて (2019年9月号:日韓問題、教育勅語、終戦の日など)
常念山脈は初秋の様相で、稲の穂も重そうに垂れています。安曇野・穂高は涼しくなって朝晩は20度を下回り、自宅の庭も、ホトトギス、シュウメイギク、ムラサキシキブ、ナツメなどの秋の花・実に移ってきました。この秋は、柿も豊作のようです。というわけで、9月半ばには、拠点を東京に戻し、これからは、11月末の冬支度・店仕舞いまで、東京-穂高を往復の日々になります。
さて、話題には事欠かない夏でしたが、今回は、日韓問題、柳田國男と教育勅語、終戦の日、青森・キリスト祭などについて感じたことを記します。
● Don’t move the goals - 日韓問題 ①
最悪の状況にある日韓関係だが、日本は、国際社会に対し、あらゆる事実を洗いざらい、かつ、客観的姿勢で伝え、これを通じて、真・偽、正義・不正義を明らかにする時期に来たと考える。
韓国による「世界PR作戦」も恐れたり動揺したりすることはない。個人的な経験にはなるが、国際小麦協定(IWC)の会議での様子を紹介しておきたい。日本、米国、EU(当時はEC)が対立したとき、ECは、「国際会議や」や「国際交渉や」と称される手練れの外交官(ジャコ-、ピズ-チ)を送り込み、延々と演説をぶち、米国非難し、日本を挑発して、各国の支持を取り付ける作戦をとった。
ある種の詭弁でもある「弁論作戦」だったが、今回WTOやRCEPに派遣された韓国代表もその類いと推測している。オウム教団の「ああいえばジョウユー」のような連中で、議長から「関係ない垂れ流し発言」を制止されたといわれるが、国際会議では当然のことだし、また、それを、彼らは気にもしない。
韓国に対しては、最小限でも、国際約束(条約・協定)は遵守する、 関係のないところでの触れ回りはしないの2点をねばり強く求めていかなければならない。
● 二度と負けない - 日韓問題 ②
文在寅大統領は、8月2日発表の国民向け談話で、「二度と日本に負けない」と語った。はて、それでは、「一度目の負け」とは何時のことなのだろうか。
①モンゴル(元)の属国・手先となり日本を攻めて敗退の「元寇」(1274年・文永の役、1281年・弘安の役=2回の負け)、
②豊臣秀吉に攻め込まれて、最後は講和になる「朝鮮出兵」(1592年・文禄の役、1597年・慶長の役=引分け)か。
いずれにせよ、①、②での当事者は、元や明の支配下にあった「高麗」(南北統一朝鮮)である。この歴史を振り返ると、文大統領の語った「南北経済協力で平和経済が実現すれば(中略)一気に日本の優位に追いつくことができる」という含意=高麗朝鮮も妙に現実感を持つ。他方、国内には、『今回も負け戦さだ』と経済についてのdamage control(=言い訳)が出始めているともいわれる。
さて、朝鮮半島と日本の軍事、政治、経済、文化の関わりは古くから数多い。いくつか事例を挙げれば、①半島に高句麗、新羅、百済の3国が覇権を争っていたころ日本が百済を支援し唐・新羅の連合軍に敗れた「白村江の戦い」(663年・天智天皇)、②内戦に敗れた百済難民を引き受け定住させた埼玉・高麗郡の誕生、③半島海岸線の村や海を荒らし回わった「倭寇」(13~16世紀)(実態は、後期では大半が朝鮮民族同士での争い・略奪=偽装倭寇だったとの網野善彦の説)などである。ともかく、両国の歴史は古く、長く、複雑なのだから、より深く、より冷静に観察しなければならない。では、某大統領につぎの警句を贈ろう。
“勝つ勝つといって訴訟を起こし、負けては大変だといって金を取り、負けても自分のせいではないというのは悪徳弁護士の常とう手段である” (正木ひろし弁護士)
● 柳田國男と「教育勅語」
9月に内閣改造が行われそうだが、文科大臣が交替するようだと、記者会見で、一部マスメデイアから「教育勅語」に関する<ヒッカケ>質問が予想される。
これまでにも、「部分的にはいいところがある」などと中途半端な回答をして、墓穴を掘る歴史勉強不足の新大臣もいた。ここで、参考のため、農政の先達にして著名な民俗学者の「柳田國男」の指摘を紹介しておこう。彼は、「教育勅語」についてはっきり否定した。(臼井吉見「安曇野」第5部)
“ あんなものは、武士仲間ならともかく、一般庶民や農民には、もともと縁もゆかりもないもので、ああいうものを上から押しつけたことが、そもそも、まともな道義が育たなかった根本だ。わけても、村の衆の間に強く生きていた近隣同士の思いやり、これを伸ばして育てなかったのは、教育勅語の大きな罪だ ”
戦争のさなかにもかかわらず、こんなことを講演会で発言するものだから、憲兵に狙われるというとんだ目に逢うことになったと(臼井吉見は)いう。
● 終戦の日に - 若き自由主義者の三つの遺書
北安曇郡池田町の出身で松本中学から慶応大学へ、大戦末期に鹿児島の知覧から出撃、特攻死した「池田良司」の遺書が8月15日のテレビで放映された。
彼の遺書は、①型通りのものと②本音のもの、そして、③は、初恋の人への謎めいた本であった。第2の本音の遺書では、概要つぎのように述べている。
“権力主義、全体主義の国家は必ず敗れる。自由主義こそ合理的で、自由主義の国の勝利は明確だ。そして、いま、自由主義者が一人この世から消える”
彼に影響を与えたのはイタリアの哲学者「グロ-チェ」で、第3の遺書は、グロ-チェの著作の特定の文字を丸で囲って、続けて読めば初恋の人へ自らの意を伝える文章になっていたという。自由を育んだ安曇野らしい逸話である。
● 青森のキリスト祭ふたたび
平成28年の8月号で、日本三大奇祭の一つとして、戸来の「キリスト祭」(青森県新郷村戸来 = ヘライ ← ヘブライ)を紹介した。JR東日本の車内誌「トラン・ベ-ル」の8月号には、実際の画像が掲載されている。これを、一見すると、浴衣姿の女性たちが踊る「なかなか楽しそうな盆踊り風景」に思える。
ちなみに、繰返しにはなるが、祝詞には、「イエス・キリストは、シベリアに渡って八戸に上陸し ・・・(中略)・・・ 浄めたまえ」との意味が込められており、これらを織り込んだ「古い盆唄」(賛美歌ではない)を歌いながら村人は踊るのだという。
(注)「キリスト祭」は、毎年6月の第1日曜日に行われ、式はなぜか「神式」、「神をたたえる古代ヘブライ語の軍歌」ともいわれる詞章は、<ナニャドヤラ ナニャドナサレノ ナヤドヤラ>と聞こえるそうだ。(8月7日付け読売新聞から)
● 古本の供給者は60代、70代?
古本市といえば「神保町」だが、かつて入手しにくかった希少、貴重な本が、最近は、かなり楽に買えると聞いた。①デジタル化の影響、②親子関係で子や孫たちは書籍に相続価値を認めない、③終活が盛んになり、前提として「断捨離」 も流行っているなどが原因として考えられるが、確信はない。
実際にも、知人が所有する「大事な書籍」を出身母校に寄付したいと、申し出たところ、「スペ-スがありませんので」と丁重に断られてしまった。とくに、60、70歳代からの古本供給が増加しているそうで、ちょっと残念な気持ちだ。
(2019.8.27記)
風に吹かれて (2019年8月号:近ごろ印象に残ったこと)
7月20日のサンケイ(コラム)は、楽しかった。日韓関係悪化で日本製品の不買運動が起きている。これと連動してか、<最近、地方の教育当局が「修学旅行」は日本語だから使用はやめようと日本語追放策を発表した>とある。
これに対し、さすがに識者から、<そんなことをいえば、教育、学校、教室、国語、理科、社会、憲法、民主主義、市民、新聞、放送 … すべて日本製ではないか>と笑われているらしい。よく考え、調べてから行動して欲しいものだ。
● Do you feel ・・・ ?
これも7月のある日のことで、安曇野・穂高のそばやで昼食を取っていると、近くの席からの会話が聞こえてきた。観光客らしい外国人男性を囲み接待側の60歳台の日本人女性3人による英語でのワサビ談義である。砂糖をつけながら摺り下ろすと辛みが増すのを実演して見せている。下ろしたワサビを味わってもらうのだが、その結果を問うところで行き詰まっていた。
Do you feel “tsun-tsun”? ・・・Do you feel “hiri-hiri”? ・・・
Do you feel “piri-piri”? こう繰り返していくと、相手には、なんとなく通じたようなので、まあ、擬態語も悪くはない。
● 日本は理想の国?
「新・世界の日本人ジョ-ク集」(早坂隆著・中公新書クラレ)には、こういう一節があるそうだ。
<天地創造の時代に、神は理想の国を造ろうとした。地味豊かで、四季に恵まれ、勤勉な人々の住む日本という国を。横から天使が口を挟んだ。「ほかの国から不満が出ませんか」。ウ-ム、神様は思案した。「それもそうだな。では隣を韓国にしておこう>
● 万葉集と「なびけ、この山!」
令和の年号が「万葉集から」と報じられ、高校時代に古典の先生が万葉集の歌のダイナミックさを江戸時代の俳句と比較してこう解説したのを思い出した。
“東(ひんがし)の野に かぎろひの立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ”と
“菜の花や 月は東に 日は西に”の比較で両者には、「動」と「静」で、大違い。
なるほど、自然と対峙するとき、万葉では、きわめてアクテイブなものがある。山に隔てられた遠国への赴任の旅にあって、恋人の姿を見たい、家を見たい、そこで登場する言葉は、“妹が門見む 靡けこの山”であるし、夫の遠国への配流に際し、“君が行く道の長手を操り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも”とその妻は激しく謳う、これが万葉時代の歌人であった。
● 県歌と郡歌
“信濃国は十州に”で始まる「長野県歌・信濃の国」をここでも取り上げたが、明治末期、1900年代初めには、全国の各地で市町村や郡の歌も作られたそうだ。
小谷、白馬、大町、松川、池田を束ねる「北安曇郡」にも郡歌があって、その歌詞の一部は、山国らしく、“山岳めぐる北安曇 高嶺の雪は夏涼し”である。
● 「水運史から世界の水へ」
天皇陛下が皇太子殿下の時代に講演をされた記録集「水運史から世界の水へ」(徳仁親王著・NHK出版)は、実にわかりやすく、興味深く、優れた著である。海外での英語のご講演もあるので、“ Speeches on Water Issues by Crown Prince Naruhito”とも記されている。
そして、「はじめに」の部分には、こう書かれている。
“生物の根源であり、ほかに代わるものない大切な水が、人々が知恵を出し合うことにより、分かち合われ、その結果、紛争や貧困、教育やジェンダ-などの問題が改善され、平和と繁栄、そして幸福がすべての人々にもたらせるようになることを心から願わずにはいられません”
個人的な関心領域でもある「古代・中世の琵琶湖・淀川水運」「瀬戸内海水運」「江戸と水運」(利根川の東遷、見沼代用水と通船堀、江戸の上水道など)は、納得しながら読むことができた。
これからも、ご研究の継続に合わせて、ぜひご講演の機会をもと切望したい。
● 秋田に 「イージス・アショア」
これはまた、とぼけた、能天気な話である。常識的に考えれば、秋田は某国からハワイへ、山口は某国からグアムへの飛行線上にあるからこそ「イ-ジス・アショア」を設置するのではないか。堂々と胸を張り「安全保障上の戦略拠点」といえばよいものを、「山の高さなど地形から割り出した立地、計測した数字はこうである」などといって、逃げようとするからおかしくなる。
それよりなにより、この大事な数字を <グ-グル・ア-スで計算した>とは、平和ボケにもほどがある。こんな数字の取り繕いに精を出すから居眠りもする。
● 松尾芭蕉と謡曲
芭蕉は、あらゆる古典に通じ、これを自らの句に取り込む大俳人なので、その解釈には骨が折れる。6月のある日、新潟への新幹線で読んだ「野ざらし紀行」には、“猿を聞く人 捨て子の秋の風いかん”とあって、なんのことやらと思って脚注を見れば、小さな字で「謡曲・鞍馬天狗から」と記されている。
なるほど、「哀猿雲に叫んでは 腸(はらわた)を断つとかや 心すごの景色や」の詞章が下敷きなので、これがないと理解は不能のようである。
(注)本当に捨て子がいて、それを無視したのか、ここは疑問である。
● インフルエンザ=スペイン風邪は誤解
第一次世界大戦の末期のことである。枢軸国と連合国の双方は塹壕の中で睨み合って、戦線は膠着状況であった。その帰趨を決めたのは、
①ドイツの戦略間違い、
②枢軸国側への補給の枯渇、
そして、③インフルエンザ だったという。
アメリカの参戦に伴って、大量のフレッシュな兵隊が西部戦線に投入された。同時に、それは、流行中のインフルエンザを持ち込むことにもなった。
戦争当事国でないスペインでは情報制限がなかったので、インフルエンザ・エピデミックが報じられ、世界に配信されたため「スペイン風邪」とされたが、これは濡れ衣で、震源地はアメリカだった。ところが、このインフルエンザ、アメリカ兵にも英仏の兵隊にも伝染して、影響を与えた。しかし、より強烈なダメージは補給不足、栄養不足のドイツ兵で、これは致命的であったのである。
なにせ、当時のドイツは、経済封鎖の下で物資が不足し、つまり、ドイツは、「総力戦」に敗れたのである。トラックのタイヤに使うゴムは100%輸入だから、ドイツの車両はゴムタイヤではなくオ-ル鉄製、食べ物はなく、兵隊は泥棒と化するか戦線離脱、ある師団では、2割の兵が脱落したともいわれている。
その後、ナチスドイツが「総力戦」に備え、人造石油開発、化学技術向上を図り、また、食料の点では、肥料を国内自給できるよう有機農業体制を組む。
なお、いまや世界中で当たり前になっている「システムキッチン」にしても、女性の家事労働時間を減らして軍需工場で働かせる時間を創出するために考え出されたものなのである。
(注)「1918年最強ドイツ軍はなぜ敗れたのか」などを参考にした。
(2019.8.1記)
風に吹かれて (2019年7月号:「腐敗と格差の中国史」を読んで)
「腐敗と格差の中国史」(岡本隆司:NHK出版新書)を興味深く読んだ。その第一印象は、政治・社会支配体制は移っても「中国の底流は4000年間まったく変わっていない」ということである。少々意図的には過ぎるかも知れないが、ここに、要点と感想を記したい。
「外交の要諦は、<する>と<しない>である」と外務省の知人がいう。2つの覇権国家のうち、アメリカとは「仲良くする」、「中国とはケンカしない」との 意味であるが、<しない>ためにも、悠久の歴史を知ることが大事だと考える。
● 腐敗と格差はいつ・なぜ生まれたのか
清廉のはずと思い込まれている社会主義体制」だが、中華人民共和国の建国
2年後に起きた「三反運動」(党幹部・官僚の汚職・浪費に反対し告発する運動)による重大事件で摘発された者は29万人だった。毛沢東の「文化大革命」では大量処分が起きており、習近平政権下でも、公職にある者の汚職は年間5万人、1日500人以上の処分とも伝えられ、なにも変わっていない。(‘15.3の報道) 「国家主席の任期制限を撤廃する」とした背景には、習近平の事実上の皇帝への即位によって「一君万民的な社会構造」、つまり、相対的には、フラットで身分・階級、拘束・格差の少ない社会構造とし、腐敗を一掃することを目指す。これは、遙かな昔の秦の時代に完成した「旧体制」への回帰を志向する。こうした社会構造下での統治には「官僚制が最適」だが、かえって、「一君」周辺の特権階級層とその利害関係者層の形成に戻っていくことにも繋がる。
● 共産主義国家になっても、なにも変わらない
一方、外交交渉では、こうもいわれる。「すべてが決まらないうちはなにも決まらない」結論を急ぐようだが、部分的な改革とやらが行われても、構造、行動、成果の全てがそろわない限り、中国は何も変わらない。秦の時代以来の社会構造の根本に変更がないからだ。社会主義、共産主義といっても、それは、皇帝制度の「形式的な名称変更」に過ぎない。
・官僚 長らく官房副長官(事務担当)を務めた古川さんは、「官僚制度はいかなる時代も不可欠だ。それは、王政、共和政、独裁政、民主政、共産政を問わない」と話しておられた。そして、不思議なことだが、この官僚制度は、烏合の衆や群雄割拠の下では機能しない。「一君万民」で、支配される「民」は、「その他の人々」として「相対的にはフラットな構造」であることを要する。もちろん、現象として出てくるときに、「多少の変化形」はある。基本形は変わらず「表面的な変化」があれば、その背景と性格のいかん、どの程度に組織だっているかなどにより時代の特徴が形成されていく。基本が変わらない状態であれば、官僚制度は、これに柔軟な対応をしていくものだという。
・権力 中国の官僚制は、群雄割拠が終わり皇帝制が発足した秦漢王朝時代に始まり、その基本的な枠組みも、皇帝政が続く限り存続した。しかし、その流れすべてが一様なのではなく、①中央権力のトップダウン的秩序維持⇒②ボトムアップ的な地域勢力の伸張・凌驚(後漢~南北朝)⇒③両者間のバランス均衡(後周~北宋 10 C)と多少の変化はしている。
・腐敗 近現代以前の中国では治者を「士」、被治者を「庶」と区別し、科挙に合格すれば、「士」として、本人の富貴が保証されるのはもとより、その一族・関係者に余沢が及ぶ。人々が争って「士」となろうとしたのは、「庶」では獲得不可能な一身の栄達利禄と一家の財産の保全という功利的な理由からだった。 人口増加と地方行政組織の複層化によって、中央からの「士」による統治と地方・出先のボランテイア的実務家(これを「吏」と称し、表向き、中央からは
俸給が支給されない)の組合せでは、必要な経費が賄えなくなり、円滑な行政遂行ができなくなる。そこに生じたのが、賄賂を含む独自の収入源作りである。
● 清代改革とその末路
李鴻章の兄に、広東省全域を治める総督を務めた「李瀚章」がいる。彼の表向きの年俸は英国水兵並みの60ポンドといわれているが、毎年の誕生日に集まる金はその3000倍だったと記録に残っている。 「士」になり「吏」になることは、生活の資を確実に稼ぎうるだけの私的な手数料ないしは賄賂を得られることなのであった。
● 革命のターゲット
孫文の辛亥革命における主張は、表向き「三民主義」(民族、民権、民生)だったが、真のタ-ゲットは、<満州人の清朝支配からの脱却>=易姓革命で、皇帝になることだった。死去時の<革命いまだならず>は、意味深長である。
● 〇〇長官は一族を養う? この話の終わりに余談・経験談を一つ。福建省出身の若手の経営成功者が、 小生に向かって、「渡辺さん、長官になると大変でしょう。親類縁者や一族を 養わなければならないから。でも、これからは、地方出張などに行けば、いろ いろと付け届けやお土産があって、財産もできますね」ときて、愕然であった。 社会主義大国を自称する中国、しかし、実態は、いにしえと全く変わらない。おそらく、腐敗・犯罪の撲滅は「永遠に果たせぬ夢」であろう。(2019.6.25記)
(2019.6.25記)
風に吹かれて( 2019年6月号 :英語に強くなる本)
月に2回発行される雑誌「プレジデント」の4月15日号を読んで、はるか昔の 「英語に強くなる本」(岩田一男 光文社カッパブックス)を思い出した。(プレジデントの特集は 「中学英語でペラペラ喋る」 “1200単語で大丈夫”)
●英語に強くなる本
これは半世紀以上も前、高校入学の1961年の発刊である。そこには、「文法・文章英語」とはまったく異なる切り口でのユニ-クな事例が数多く紹介されていて、その当時の岩田先生には、面白く、新鮮で楽しい印象が残っている。
①単語だけで繋いでも通じる ⇒ ファ-ザ-・マ-ザ-・浅草・ゴ-!
②耳から聞いた英語を日本語に置換える ⇒“ What time is it now ? ” は、→「掘った芋、いじるな?」
知人によれば、これは、「ジョン・万次郎」がそのように伝えたらしい)
③アクセントを強調する ⇒ 英国で、電車の切符を買うとき、“ West Kensington ”を「ウ・エ・ス・ト・ケン・シン・トン」といったが通じない。⇒ <上・杉・謙信>といったら通じた。(作り話的な感じもするが・・・)
④ 英米人が話すのを子供が聞いて ⇒英語では<赤=ウレ!> <白=ワイ>だ。
⑤ 英語をかじった人が、列車で「ニュ-ヨ-クまで」と注文したが通じない。 ⇒「これは前置詞が違った」と思い込み、<to NY>といい直したら2枚、さらに、<for NY>といい直すと4枚、ますます混乱し、<エ-ト・・・>と考え込んだら、最後には <eight tikets NY>と、これは笑い話。
⑥港の荷揚げで見たアメリカ兵、「でっけえ、でっけえ!」と江戸っ子のようだ。⇒ いや、いや、“Take care , take care ! ”「気をつけて、気をつけて!」の
聞き違えだった。
いかがであろうか、筆者の記憶を辿ってのものだから、正確性には欠けるが、ともかく強いインパクトだったことだけは確かであり、それらが、未だ廃れず、後述する「プレジデント」の記事に引き継がれているのだろう。
● 週刊プレジデント(4月15日号)からの抜粋
<今すぐ使える!シ-ン別「空耳英語」会話集>からの抜粋だが、筆者の目から見て、「これは近い」と思われるものに限定し、ややデフォルメもしてある。
① 堀った芋いじるな(略)
② どういう飲み? = Do you know me ?
③ 幅,ないっすね~ = Have a nice day !
④ 稚内、どう? = What can I do ?
⑤ あ、どなたさ~ん? = I don’t understand .
⑥ 兄い、移住 = I need you .
⑦ アホ、みた~い = Ah , hold me tight !
⑧ 荒井・注 = I’ll write to you .
⑨ 稚内、せい! = What can I say
● 小学生からの英語は何を目指すか
いよいよ、小学校からの英語教育が始まる。指導する教員の組織体制、能力の程度が心配である。十分な準備態勢を整えてからスタ-トすべきではないか。小学校高学年の時期に大事なことは、まず日本語能力を高めることであって、コンテンツのない英会話の棒暗記、それも悪い手本を教えるのは弊害になろう。英語の試験で呻吟する大学生に、試験官が“How are you ?”と尋ねたら、“Oh,I’m fine thank you , and you ?“ と答えたとか、笑い話ではない。
自分が中学校に入学して初めて英語に接したときの先生が、Bellは「ベオ」、Dollは「ダ-オ」、Calforniaは「キャッ!フォ-・ニア」と発音され、目のウロコ、ああ、英語って面白そうだなあと思ったことを思い出す。(たしか兼子先生)
● 真似る~記憶する~変化させる~コンテンツと結ぶ
英語を学ぶ目的・目標が大事である。筆者が勤務の「新潟食料農業大学」では、英語が必修科目で4年間続く。つまり、90分授業を120コマ学習する。その目的はただ2つ、
①インタ-ネットで海外と情報交換できる、②自分たちが生産・製造した産物のプレゼンテ-ションができるである。流ちょうな英語は求めない。120コマで120フレ-ズを覚えれば、大がいの意思伝達は可能だ。あの「プレジデント」の副題「1200単語で大丈夫」に共通する。要は<中身>だ。
(注)小学校5~6年で覚える単語数は500~600単語といわれている。
それぞれの職業と必要に応じた英語での対応、たとえば、国際会議の英語、
タクシ-運転手の英語、食料・農業者の英語だ。専門用語はこちらの方が強く、使われる単語と言い回しは多くない。そして、講義で、ケッタイな英語の事例、通じる英語の事例として、ときどき引用するのが、「African Englishでは、“good→better→best”に代えて、“good⇒good・good⇒good・good・good”も使う。共通語としての英語は、世界中で多様な進化・発展し続けている。“Japanese English”で堂々と行きましょう」
(2019.5.26記)
(追補)5月のある日、ある新聞に、「自動翻訳(無料)アプリ」に誤訳が多いと報じられていた。なかでも傑作だったのは、大阪市の地下鉄「堺筋線」の
英語訳である。⇒ Sakai-Muscle-Line (これが公共広告で掲示される)
さらに、「遺失物取扱所」が、Forgotten(正しくはLost and found、または英国ではLost property office)
ついでにもう一つ、相当に古いことではあるが、亡くなった大橋巨泉が紹介しているものすごい翻訳はこれだ。
“Here’s looking at you , Kid.” (ご存知、映画「カサブランカ」の名セリフ)
当時の翻訳機では ⇒ 「ここにお前の顔つきがある、冗談を言え!」だと。 正しくは「君の瞳に乾杯!」、もちろん、こちらは<意訳>ではあるが・・・。
さて、「明石家さんま」のTVコマ-シャルに登場する最新の翻訳機であるが、その正解度や実力の程度どれほどか、しばし楽しみである。
風に吹かれて (2019年5月号:照葉樹林文化・マムシ草など)
新元号は「令和」と決まりました。M→T→S→Hと来て、略式表記「R‐」は一般化するでしょうか?「今回は日本古典から」の観測はありましたが、「記紀」では生臭い、「万葉」は造語が難しい、「序から採取」とはナルホドでした。
即位・改元のご祝儀・振舞いで「ゴ-ルデンウイ-ク」は10連休、ちょうどそのころ、あづみ野には、薫風、残雪と百花繚乱のベストシ-ズンが訪れます。
さて、JR御茶ノ水駅では、バリアフリ-化が進行中で、各ホ-ムには、「上り
下り」のエスカレ-タ-とエレベ-タ-が供用開始されました。とくに、エスカレ-タ-は一列分=狭いもので、追越しや接触の恐れもありません。病院銀座といわれながら「怖かった」これまでがおかしく、整備は遅すぎたくらいです。階上はたぶんコンコ-スになるのでしょうが、濠を挟んで離れている地下鉄の「丸の内線」との接続はどうなるのか、改善の結論を早く知りたいところです。
もう一つ、近くに養護学校があるのに「日本一危険な駅」といわれるJRの飯田橋駅、極端な湾曲ホ-ムの修正ですが、市ヶ谷駅方向へストレ-トに延伸される土台が見えてきました。かつての「牛込駅」の場所に戻る感じです。
照葉樹林文化・縄文文化 瀬川拓郎の著作によって、縄文文化・アイヌ文化に関する関心が高まっている。「縄文時代は採集で、農耕は弥生時代から」 という
思い込みは、このところ、かなり、薄らいではきたが、なお消えていない。
縄文文化に重ねて、上山春平編「照葉樹林文化」(中公新書)を読み返したが、ここで中尾佐助が照葉樹林文化の農耕方式発展過程を5段階に分けている。
① 野生採集段階 ・ナット(クリ、トチ、シイ、ドングリ)
・野生根茎類(クズ、ワラビ、テンナンショウ)
② 半栽培段階・・・ 品種の選択・改良が始まる(クリ、ジネンジョ、ヒガンバナ)
③ 根菜植物栽培段階 サトイモ、ナガイモ、コンニャク、焼畑
④ ミレット栽培段階 ヒエ、シコクビエ、アワ、キビ、オカボ
⑤ 水稲栽培段階
① に出てくるテンナンショウとは、サトイモ科の「マムシ草」のことである。
デンプン質を摂取するため、飢饉のときなどにはソテツ、ヒガンバナを食べたという話が伝わるが、マムシ草も同様、毒性のものだが、煮沸、水晒しにより
食用が可能となるとも紹介されている。おどろおどろしい画像であるが、よく見れば、サトイモに似ていないことはない。ちなみに、サトイモは、英語では、
Taro、ジネンジョはJapanese Yam、タロイモ、ヤムイモの同族である。
縄文後期の遺跡でも、集落規模が、初期の頃に比べて大きくなっている様子
から推測すれば、単なる採集だけでは増える人口を維持できたとは思えないし、もう少し食物の化石などが出てくれば確定できるが、この④段階だったのかと推測できて、縄文=採集一本槍ではないと考えている。何しろ、縄文の時代は、1万年以上の長きに渡るから、その間まったく同じレベルにとどまるはずもなく、照葉樹林文化の発展段階に重なるほどの進歩は十分可能だったことだろう。
● 「昆虫は美味い」 (内山昭一 新潮新書)
この本のなかに、「FAO(国連食糧農業機関)が昆虫食を推奨している」という
記述が見える。(169ペ-ジ~)2013年の報告書 = 「食用昆虫―食料と飼料の安全保障に向けた将来の展望」は、持続可能な食料として家畜に比べた昆虫の環境的優位性をつぎのように強調しているそうだ。
・飼育転換効率がよい 牛肉1kgには10kgの飼料、コウロギは2kgで済む。
・昆虫は可食部率が大きい 牛の可食部は40%、コウロギは80%もある。
・温室効果ガスの放出量が少ない 昆虫は温室効果ガスやアンモニアの放出が
極めて少ない。反芻動物は、体内発酵や糞尿で長期、大量に排出する。
・有機廃棄物で飼育ができる 昆虫は、人間や他の動物の廃棄物で生育できる。
フンコロガシがいなかったら、地球は糞まみれだ。(奈良公園の鹿は1300頭、1日の糞量は1トン、35種の「糞虫」が食べて公園をきれいに保っているとか)
・人間の食べものと重ならない 蚕は桑の葉で育つ、その一方で、穀物を食べる
家畜は人間と競合している。
・高栄養食品である タンパク質、必須アミノ酸、不飽和脂肪酸、ビタミン、
ミネラルなどの宝庫である。
安曇野のス-パ-には、ハチの子、イナゴ、カイコの蛹など、昆虫類の食品が
ごく当り前に並ぶ。環境、持続的発展に寄与し、信州人の長生きの源でもある。
● ペーパーレス社会なんてホントかね?
セイコ-・エプソンの調査によれば、大学生が4年間の学生生活で印刷する
紙の枚数は平均7630枚に上るという。いくらかは減少に向かっているようだが、依然として大量の紙が必要とされている。
また、年配者にとって、パソコン画面の文字は読みづらく疲れるため、つい
つい印刷して紙媒体で読んでしまう。結果的に、紙は減らず、インクは大量に
消費するで、まことに悩ましいところである。
(2019.4.25記)
風に吹かれて( 2019年4月号 : 関ヶ原の戦いの謎ほか)
これは、ちょっとした材料をつなぎ合わせた「個人の勝手な想像」でもある。
● 鉛で葺いた金沢城の屋根(石川門) 金沢城の屋根は鉛板で葺かれている。インタ-ネットには、「腐食に強く、 壮観な外観とするため」などと書かれているが、50年ほど前にこの地を訪れたときには、「いざ徳川方との戦になったときには、鉄砲の弾丸にする」と聞いた。
風に吹かれて( 2019年3月号 : 塩の話 あれこれ ③ ほか )
「一陽来復」、日も長くなって、ようよう春めいてきましたが、花粉も盛んに飛んで、しばらくは憂鬱な季節です。
さて、今月のテ-マは、塩の話の続き(第三話)と「今西錦司」の再読です。前号では捕鯨問題を取り上げましたが、今西錦司は、早くから、「まったく手をつけない自然が絶対という環境主張と、日本のように、<シンビオス>(共棲)、利用するのが自然という考え方の差は乗り越えられない」 と喝破していました。
(1) 塩に因んだ地名など
(2) 伝統的な製塩法
岩塩を溶かして煮詰める「溶解採掘法」(世界の6割)、海・湖の塩水を引き込んで天日乾燥、濃縮して結晶を採取する方法、12月号でも紹介した「山塩製塩」(塩分の濃い温泉水などを煮詰め・濃縮)が主たる製塩法だが、この際、伝統的な日本の製塩法 にも触れておきたい。
縄文の遺跡からは、塩水を煮詰めるのに用いたと思われる土器が発掘されている。また、古代の日本では、塩の付着した海藻を天日などで乾燥し、結晶を採取、焼いた海藻の灰を煮つめてその濃塩水から塩を採取する方法もあった。
・玉藻刈る敏馬(みぬめ)を過ぎて夏草の野島の崎に船近づきぬ
(柿本人麻呂 万葉集)
・来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩(もしほ)の身もこがれつつ
(藤原定家 新勅撰集)
● 今西錦司・再読
母校・北園高校の「創立90周年記念」でも、新潟食料農業大学の新入生にも
<読書のすすめ>として、①生物の世界(今西錦司)、②日本社会の歴史(網野善彦)、③失敗の本質(戸部良一他)、④英語物語(文藝春秋)を挙げた。
このうち今西錦司の著作については、最近の世相から、もう一度読み返してみようと思い立ち、書棚に眠っていた「自然と山と」(筑摩書房 随筆集)、
「今西錦司の世界」(平凡社)の2冊を開いた。これは、前者からの抜粋である。
なお、高校生には、「生物の世界」の紹介で、<ダ-ウインのいわゆる「競争→淘汰」に対して、存在するものにはそれぞれ意味がある「棲み分け」理論が展開されます。このことは、環境と生物の関係のみならず、社会構造にも至っています。1940年の発刊だが、それにも拘わらず、ここでの生態系、食物連鎖、生物多様性などとの関わりは、グロ-バル化が賑やかな現代社会にも通じるものです>と解説している。
(2019.2.28 記)
風に吹かれて
( 2019年2月号 : 日韓の問答・捕鯨とIWC )
寒い日が続きますが、いかがお過ごしでしょうか。こちらは、受験シ-ズンということもあって、雪の新潟・胎内のキャンパスを往復する日々です。
さて、新幹線の新潟駅では、待合室(=座(za)にいがた)を一新して、椅子やベンチを地元名産の家具に切り替えましたが、やや凝り過ぎで、居心地はよくありません。ただ、特産の「茶豆」を模したベンチだけは 微笑ましい印象です。
● 韓国の論法 (問答集) ‐ Don’t move Goals -
(1) 徴用工訴訟の判決
① 1965年6月の日韓条約(日韓基本条約ほか4協定)で、請求権は互いに
放棄したではないか → 個人の請求権は放棄されていない(トボケ)
② そのことについては、交渉の際に、日本側から「個人補償の意思あり」と提案したが、日本からの賠償を通じ韓国政府が自国民に補償を行うと答え、合意したではないか → 司法の判断なので仕方がない(すり替え)
③ 日韓条約は国際法であり、韓国の国内法に優先するのではないか
→ 無言・・・(この原則、異なる国もあるが韓国は「国際法遵守」のはず)
④ 原告は「徴用工」ではなく(自由意志での)「応募工」ではないか
→ 無言・・・ <それはそれとして、問題の本質は「植民地支配にある」
= いわゆる「従軍慰安婦問題」で誤報をした朝日新聞の論法と酷似>
(論点のすり替え&飛躍)
(注) 日本側の主張・疑問 → 韓国側の回答・考え ・・・ (2)も同じ
(2) 自衛隊機に対する火器管制用レ-ダ-照射(ロック・オン)
① ロック・オンを確認し、事実と目的を問い合わせた → 北朝鮮漁船の
救助のため「レ-ダ-・カメラ」を向けて捜索中(誤って照射)だった
② 自衛隊機の撮影では、ロック・オン時にはすでに北朝鮮漁船と接触して
おり、照射の必要性はない → ロック・オンはしていない(事実を変更)
呼びかけと称する無線は、雑音がひどく聞き取れなかった(トボケ)
自衛隊機は超低空で韓国船に脅威を与えた、謝罪せよ(すり替え)
③ それでは、互いに記録(事実)を出し合おうではないか → 韓国側の
記録は、軍事情報(機密)だから出せない(居直り)
④ ロック・オン時の韓国海洋警察船の撮影でも、自衛隊機は十分な距離と
高度を保っている、高度150mは、世界共通の安全高度 → 高度150mは民間機に適用され、軍用ではない、それなら韓国もやり返す(勝手な解釈)
(注)海洋警察が救助現場にいるのに、なぜ軍艦が出動し、実は何をしていたのか?
⑤ 最後の決まり手 → 日本側はいかなる被害を受けたか、被害を受けたのなら言ってみろ、日本は無礼だ(居直り・反抗)
⑥ 1/21 防衛省、照射音記録を公表、これにて終了 <すべては事実が語る>
なお、韓国「プロパガンダ動画」は、日本発表の画像を加工、喧しいBGMと
テロップや北朝鮮チックな語りを取り込んだ配信である。加工・修正・テロップ・語りによる宣伝は、ナチス、日本陸軍、北朝鮮、中国などに共通の常套手段だった。
(注1)米国の国際専門家は、“日本が1000年謝罪し続けても韓国は認めることはない”と語る。
(注2)1月11日の産経新聞コラムは、<歴史と現状から考えて、韓国人は、中国を怒らせる
ような米韓同盟の強化は、得られるものよりも失うものの方が大きいと考え、韓国人の中国への諦めにも似た驚怖心というものは他のいかなる国に対するものとも異なる>と述べていた。
(注3)1/16の報道では、2018年の韓国国防白書から「(日本と)自由民主主義、市場経済の基本的認識を共有している」との記述が削除されたとある。
● 捕鯨問題-外伝
IWCからの脱退は、①科学的根拠による捕鯨と環境の両立(持続的な捕鯨)が無視され続けて改善が全く不可能、②加盟国分担金と調査捕鯨のコストが膨大、③公海捕鯨(復活)の必要性がないほど鯨肉需要は減少という背景があろう。
以下は、捕鯨問題に関わった筆者の個人的な経験・エピソ-ドの紹介である。
まずIWCの成り立ち、背景だが、当初は、「鯨油価格の低落防止のための国際カルテル=捕獲制限」だった。国際捕鯨取締条約(1948年)は、その後20年間、
鯨油生産調整機能を担ってきた。鯨を完全利用する日本と「脂皮以外の9割を廃棄する欧米」、利用が全く異なる国々が同居していたことに不幸がある。
1972年に「国連人間環境会議」が開催され、環境が絶対的優先(全ての鯨が
危機と宣言、IWC科学委員会と対立)の風潮が生じて反捕鯨運動が高まったが、
そこには、植物油が発達して鯨油の需要が低下したこと、そして、環境は金になる、選挙の票にもなるとの背景があった。(グリン・ピ-ス集票力800万票?)
① このころから日本の大手漁業会社は、縮小・撤退を判断し、捕鯨船団などの現物出資で(株)共同捕鯨を設立した。(公取委は一社独占を危惧し、当時の公取委に在籍していた筆者は、<セリによる公正な取引導入>で対応した。
② 1982年に<商業捕鯨のモラトリアム>が採択されたが、日本、アイスランド、ノルウエ-などは異議申立てを行い、商業捕鯨の継続を主張・実施した。
(注)モラトリアムでも米国は、アラスカ地域での捕鯨を「先住民のための“生存捕鯨”と
称し、資源量に関わりなく強引に認めさせる<ダブル・スタンダ-ド>で今日に至っている。
③ 1987年、アメリカの圧力(公海や米国EEZ内でのスケトウダラの漁業制限)により、日本は(水産業界と相談の上)異議申立てを撤回、モラトリアムに従うこととした。スケトウと鯨の経済バランスを比較考量したのだろうが、
当時、ワシントンで垣間見た水産庁幹部の悲壮な表情は印象的であった。
いまとなってみれば、「資源がよかろうが、悪かろうが関係ない。いかなる商業捕鯨にも反対」というのが「反捕鯨国」の立場だから、当時の<一次的モラトリアムだから、10年後には再開もありうる>との判断は甘かったといえる。
④ ここから、捕鯨にとってイバラの道が始まる。また、ことは、IWC条約の対象である大型鯨類にとどまらず、EEZ内の小型鯨類(イルカ)漁業にも影響が必至と考えられた。1991年当時、沿岸課長であった筆者は、北海道、岩手、千葉、和歌山などの道県と沿岸の小型捕鯨関係者に相談し、資源管理の観点に立ち、「イルカの捕獲頭数制限」を決めた。グリ-ン・ピ-ス・ジャパンからは、<画期的なことだ>として感謝状が贈られたが、皮肉にも、感謝状を贈った日本代表は、組織から姿を消した。本部からの指示だったとしか思えない。
(注1) 北海道、三陸はイシイルカ、千葉や静岡、和歌山はツチ、スジ、ゴンドウなど小型
鯨類を、突きん棒、追い込み網、定置網などの異なる漁法で漁獲している。和歌山の追込み網漁法が、陸上からも観察できて、湾内が血に染まるのが見えるので、グリ-ン・ピ-スやシ-・シェパ-ドの絶好の標的になっていること(残忍さを訴えられる)は周知のとおりである。漁業者には、<世界の風潮を肌で感じる>ためにもと、レイキャビクでのIWC総会へオブザ-バ-参加を求めた。なお、しばしば、クジラは「日本の」食文化といわれるのだが、これは間違い、「地域の多様な食文化」といい直すべきで、それでこそ将来がある。
(注2)同時に、(捕獲枠外の)座礁したイルカの救出・処理のため、オ-ストラリアでの事例も参考に、「セイブ・ザ・マリン・マンマール」予算を措置、沿岸イルカ漁業の継続を図った。
(注3)なお、人魚のモデルともいわれるスナメリ、食用には適さないイッカクやシャチは、全面漁獲禁止にした。かつて課長の指導・通達はそのくらいの権威と力があったのだ。
⑤ 2001年に、アメリカのノ-マン・ミネタ運輸長官(前商務長官)が来日し、前職での懸案として、「(とくに北西太平洋での)鯨は絶滅の危機にあるから、捕鯨は禁止すべきだ」と武部農林水産大臣に申入れを行った。日本側は、「資源は十分あるし増えてもいる」と反論した。すると、ミネタ長官は、「いったい、誰がそんなことを言っている!」と、たちまち不機嫌になる。
アメリカ側の通訳に<いい加減な伝達>をされてはいけないと思い、陪席した筆者(水産庁長官)は、僭越ながら、“You say , Your Government says , Your Home-Page says”と切り返し、気まずい雰囲気になった。そして、翌日、商務省のホ-ム・ペ-ジからは、<北西太平洋のマッコウ・クジラの資源量200万頭>がきれいに消えていた。政治・外交は、きれいごとでは済まない。
(注)このころ、外務省では、対米関係の悪化におびえ、「北西太平洋での調査捕鯨をなんとか取り止めにできないか」と主張・行動する高級幹部と水産庁の根拠ある主張を理解する事務方との間には、上司の行動を“平成元禄田舎芝居”と称するほど大きな格差もあった
⑥ 北西太平洋での調査捕鯨についてもう一つ。この地域の調査捕鯨の結果では、増え続けるクジラが大量の魚類を食べ、食物連鎖の頂点に立つ人間の生活を
脅かすほどになっていることが分かった。保護・規制・管理・利用は、適切な
バランスで行われなければ、却って生態系を破壊し、持続的発展は望めない。
⑦ 鯨類資源の持続的利用と環境保護の両立はもはや困難、これは、反捕鯨国の「捕鯨は時代遅れの習慣で、南氷洋、北西太平洋など公海での漁獲停止は前進」というNZの発言などを見れば分かる。少なくとも現在のIWC体制の下では
無理であり、国連海洋法条約とワシントン条約(での科学的根拠)の対応措置、
2者への分化・特化をすべきでなないか。日本という「闘争目標がなくなった反捕鯨国」にとって、IWCの場が魅力的でなくなる日も遠くはあるまい。
(注)なお、国際的な資源管理に向けた日本の立場を維持するためには、加盟国からは脱退しても、IWCの科学委員会などへは「オブザ-バ-参加する」のが妥当で、また、日本のEEZ内では、捕獲頭数制限などの鯨類資源管理を徹底するのが上策であろう。(2019.1.25記)
風に吹かれて
(2019年1月号 : 塩の道ふたたび)
皆様、本誌を1年間ご愛読いただきありがとうございました。新しい年が
穏やかでよいものになるよう祈っております。引き続きよろしくお願いします。
● 第三の「塩の道」
平成24年6月号で、「塩の道:千國街道」を取り上げ、日本海側の糸魚川から信州の松本・塩尻に至る北塩 (裏塩) に触れた。またその後、太平洋側の三河・駿河湾から足助・秋葉街道を経て信州の飯田・塩尻に至る南塩(表塩)の道に
ついても解説したことがある。その際、この道では、塩ばかりでなく塩漬けの水産物も運ばれ、経由地・到着地では、塩抜きされたイカなどが名物の「塩イカ料理」に、また、あら塩に残る「ニガリ成分」が信州大豆の豆腐→凍豆腐を育てた、そして、この食文化は、北の大町・南の飯田に共通することも書いた。
そこで、つぎは、越後から信濃に至る「第三の塩の道」である。10月2日付の新潟日報では、上越の沿岸部(直江津)から信州方面に塩や海産物などを運んだ「塩の道」の経由地として多くの人が行き来した上越市牧地区に「口留(くちどめ)番所」が復元されたと報じている。この解説では、<牧峠から信州飯山>とだけ触れられているが、その後の「信濃毎日」記事と照らし合わせると、ル-トは、直江津~高田~牧村~飯山~善光寺~上田(塩尻)だったのはないか。なお、
信毎は、上田のほか、栄村にも「塩尻」地名が、いまも残っていると解説する。
日本海から信濃へ「東の塩の道」があるなら、太平洋から信濃へも「東の塩の
道」が存在するのではないかと思っていたところ、<千葉の塩が中山道を通って追分経由、小諸、上田(塩尻)へ>とのル-ト解説もあるようだが、「中山道=塩の道」では味がない。(むしろ、行徳~小名木川~江戸=塩の道の方が楽しい)
● 「塩尻」とアイヌ語の「シリ」
いまも地名に残る 「塩尻」 の語源について信毎は、<塩の道の終点(尻)>というのが一般的であるとしつつ、これ以外にも、「ここで品切れ説」、「南北の塩の合流説」、「岸壁に挟まれた絞り地(シボリ・ジ→シオ・ジリ)からの変化説」(注2)、「山型の塚=尻説」「アイヌ語で地=シリ説」などと多くの説を紹介している。
アイヌ語説については、深田久弥「日本百名山」の「羊蹄山」が参考になる。この羊蹄山のアイヌ語名“シリベシ”は、北側を流れる「尻別川」からの連想、となると、シリ=山の、ベツ=川だから、信毎のいう<単なる「地」>ではなくて、小高く盛り上がっていることが大事なのではないだろうか。
なお、「羊蹄山」と呼ぶことについて、深田は、「シリベ」は<どん尻>、
「シ」は<シダ>の和名だから、<後方・羊蹄山>としなければ不正確である
ともいっている。それにしても、北海道には「尻」のつく地名の多いことよ。
(注1)東西4ル-トの「終着地が塩尻で共通」だとすれば、やはり「ドン尻説」が有力だ。
(注2)日本語の変化 「シボリ・ジ」→「シボ・ジリ」→「シホ・ジリ」→「シオ・ジリ」
● 鹿塩温泉の「山塩」
NHKの朝ドラ「まんぷく」で、インスタント・ラ-メンの創始者「安藤百福」と
その女房が取り上げられ、高視聴率を得ている。安藤さんの起業は、終戦後の「塩づくり」から始まったという設定だ。塩は人間の命に不可欠のものであり、上杉謙信がライバル武田信玄に汐止めの際に塩を送ったとの逸話(伝説?)も、
謙信公の「義の戦さ」を美化すべく創造された「命の塩」から出ていると思う。
それでは、信州・甲州で塩は本当にとれなかったのだろうか。実は、長野県には、いまだに、山の中で塩を製造しているところがある。飯田線の伊那大島からバスで50分ほどかかる 「鹿塩温泉」 がそこである。弘法大師による塩井の発見説や南朝の拠点説(後醍醐天皇の皇子:宗良親王は塩があるが故に拠点としたとの説)はさることながら、1875年に、元徳島藩の黒部鉄次郎がこの地で大がかりな製塩製造を行っている。一時中断をしたが、復活して現在に至る。濃い塩分の「温泉水」(海水の塩分濃度は30%、温泉水25%)を煮詰めて塩を取り出すのだが、その元になる岩塩は未だ発見されておらず、塩水の湧出する理由は不明という(ウイキペデイア)なお、この塩は、「ニガリ成分」=マグネシウムが少ないために<まろやか>だといわれている。(価格は50gで税込み530円)
余談になるが、ここ「鹿塩温泉」は南アルプス 「塩見岳 」への登山口で、
50年も前の夏、高校のクラスメ-トにして登山仲間の安井好男さんと二人、
日本第二の高峰「北岳」への縦走を試みた出発の地でもある。塩見岳(3047m)から仙塩尾根を経て、間ノ岳(3189m)、北岳(3192m)に連なる快適な3000mのピ-ク・ハンテイング、4泊5日の旅であった。
● 食育
「食育」という言葉は、明治時代の作家で「食」の研究家「村井弦斎」が
明治36年の小説「食道楽」で初めて用いた。本文に入る前に、“小児には、徳育よりも、知育よりも、体育よりも、食育が先”というのである。あれから110年を経て、「食育基本法」が成立するまで、長い長い空白があった。
● <ナリ・チュウ原稿>
終わりに、ある講演会でマス・メデイアの幹部から聞いた話を紹介しよう。
詳細不明の事件で、「誰か、ナリ・チュウ原稿を書いてくれ!」と使われるらしい。
事件が起きて、専門記者・専門家がいないときに、新聞・テレビの第一報で
用いられる言い回し・常套句だそうだ。いわく、「いずれにせよ今後の成り(ナリ)行きが注(チュウ)目される」といった具合で、他にも「事態は思わぬ展開となり」「今後予断を許さない」「関心はいやが上にも高まっている」などが同類である。
こうした中身はなく、何でも使えるもっともらしい常套句には要注意だ。
たとえば、この手法を使ってテレビ中継をすると、つぎのようになるだろう。
「事態は思わざる展開を見せており、予断を許さない状況にあります。また、関心はいやが上にも高まっており、今後の成り行きが注目されます。以上、現場から○○がお伝えしました」 フム、フム、これはよく見かけるパタ-ンだ。 (H30.12.28 記)
風に吹かれて
(H30年12月号 : 書き残したこと、伝えたかったこと)
12月の声を聞いて、あづみ野はグッと寒くなりました。朝晩は氷点下になる日も多く、近隣では、冬タイヤへの交換や農家の庭先での大根干し、野沢菜の漬け込み作業も
始まっています。常念の山々は、ときには雪しぐれ、これから長い冬ごもりです。
さて、「風に吹かれて」(12月号)をお届けします。先月号に続く「落穂ひろい」の
第2弾で、個人的なメモからの紹介や最近の社会事象への感想を書きました。
● 三種の相続法 「コメの民族誌」(中公新書)
シェルパ族は、末の子と住む「末子相続」、父親からの相続は「均分相続」 だが
末子と同居していた母親が死ぬとその持分はすべて末子に行く仕組になっている。
なお、宮本常一の「イザベラ・バ-ドの日本奥地紀行を読む」には、<相続には、
① 長子相続、② 末子相続(モンゴルなど)、それに、③ 優子相続の3種があり、
日本でも、平安時代には、③の優子相続があったらしい>とも説明されている。
翻って、伝統的な食品企業の継承は、大企業であってもあの「キッコ-マン」のように、「優子相続」的に見える。一族8家のなかから優秀な人材を選抜し、育成して経営の
トップに据える。それ以外の親族は、子会社・関連会社に放出、内紛の種が残らない
ようにする。「茂木」の名前以外の社長でも、その出自はどうやら、創業8家かららしい。さて、関西などに見られる「娘に優秀な婿を取る」は、どれに当たるのだろうか?
なお、歴史学者の本郷和人は、「上皇の日本史」(中公新書クラレ)で、「エマニエル・
トッド」の分類=<人間の家族形態を「単婚小家族」、「直系家族」と「大家族」に分ける学説>を紹介している。単婚小家族では、<子どもが早くから独立し、結婚、自分の家族を作る、兄弟や姉妹はみな同等>、直系家族では、<親は、長男または末子と暮らし、彼らに全財産を譲る>、これに対し、大家族では<親子全員一緒に暮らす>(チベットや雲南地域?)(江戸時代の武家の部屋住み?)というのである。
● 日韓併合と韓国の警察制度
日韓併合前の「乱れに乱れていた大韓帝国の警察制度」は、併合後は刷新改善が
図られた。明治43年(2010年)~ 昭和8年(1933年)のデ-タが示されているが、
警察署は 107→251ケ所に、駐在所は269→2334ケ所に、そして、警官数は 5694→1万9228人と急増し、しかも、警察官は、全体の4割を朝鮮人が占めたとされている。
これに続けて、産経は、「彼ら(同胞の警察官)の目を盗んで、同胞の少女を慰安婦として無理やり連れ去ることなど、まずできなかっただろう」という理論展開をしているが一理あるのではないだろうか。(‘18.6.23)
韓国の大法院で確定した「戦時徴用工賠償訴訟」も同根だろう。事実(注) を客観視
しない、国際約束は守らない、三権が分立していない、つまり、法治はなくてあるのは「恨」のみ、「司法」はポピュリズムの権化・「行政の代理人」だ。「慰安婦談話」の
河野洋平の息子だからと、韓国は河野太郎外相を甘く見ていないか。(10/30)
(注) 原告4人は、<徴用工ではなく、昭和19年9月以前の「自由応募工」だ>と報じられている。
● ジャーナリスト・カショギ と武器商人・カショギ
サウジのカショギ暗殺事件は、劇画「ゴルゴ13」を彷彿とさせるような展開だった。痕跡を残さない殺人方法と遺体処理、こんなことが実際に起こるとは驚きである。まだまだ不明の点は多く、トランプのアメリカでは、ウヤムヤ・迷宮入りの可能性もありうる。
① 暗殺されたジャマル・カショギ (ジャ-ナリスト)は、誰にでも武器を売る、戦争を商売のネタにして大富豪となった「死の商人」 アドナン・カショギの甥 だった。
② 暗殺の詳細が外に伝えられ公開できたのは、カショギが<ウエアラブル端末>を着装していて、これが婚約者に発信され、トルコ政府に渡されたらしい。
なぜサウジ側は気がつかなかったのか。とぼけた話ではないか。かくして、トルコ政府は、情報を小出しにしつつサウジとアメリカを翻弄している。むかし懐かしい
公館内部に仕掛けられた「盗聴装置」での情報入手ではなかったようだ。
③ その一方、海外公館の周囲はきめ細かな「防犯(監視)カメラ網?」で監視されていて、記録された画像は、いつでも外交政策上の武器にできる。中国の監視網は、トルコ、サウジ以上だろう。
④ 結婚に関するイスラムの厳しい戒律が危険を冒してまでの正式手続に向かわせたと推測する人もいるが、本当にそうだったのか。「単なる油断?」 ではないのか。
⑤ このほかにも、カショギは王族の秘密情報を担当していたファイサル王子と親密であった、王族の一員を始め、内部紛争などから亡命をした者が’17年は1,200人を超したともいわれている、同じように独裁国家のトルコとサウジとの軋轢が高まっていて、カショギはその犠牲になったとの噂もある。
● おまけを一つ 丸山秀子
信州の名家「井出・小山一族」の一員に丸山秀子(1903~1990)がいる。協同組合運動などを通じて、女性の地位向上に貢献した丸山が残した言葉を紹介したい。
「読むことは知識を得ること、書くことは”自分を高めること“」である。ナルホドと思う。
(H30.11.29記)
風に吹かれて( H30年11月号 : 落穂ひろい ① 麗人行など)
北園高校の同期生「足立一夫さん」の仲立ちで、椎名町小学校5年生の社会学習に出前授業をしました。ここは食・農の教育に熱心で、提携している山形・遊佐の農家が協力し、毎年、校内にあるミニ水田で田植えと稲刈りを学習しているので、「田んぼと米づくりの1年」を総括的に話し、併せて、「食育」に
ついても触れました。授業名は「食べもので体をつくり、食べ方で心をつくる」です。全国、とくに都会で、このような機会が増えることを期待しています。
さて、11月号は、この1年間メモしてきた「こぼれ話」を拾い集めました。
● 九段小学校 改築・新装なる
耐震対策として改築中だった「九段小学校・幼稚園」が、2学期から新校舎になった。明治36年の開校以来110年超の歴史を持つが、改築前の校舎は、関東大震災被害からの復興事業で、大正末~昭和初めにかけて、鉄筋コンクリ-ト造りで建てられた「震災復興小学校」(注) の一つである。そのモダンな装いをどう活かすか気になっていたが、出来上がってみると、西側の2/3は、耐震の
補強をして従来のデザイン、東側1/3は、それと調和した出来ばえで違和感はない。庭に戦前の「二宮金次郎像」が、校長室には東郷平八郎元帥の海軍での遺品、遺墨が置かれ、かつてと変わらない。元帥宅から移植された楠も無事なようだ。「奮励努力」は、日本海海戦「各員奮励一層努力せよ」を彷彿とさせる。
小さな女の子が二宮金次郎を見て、「この人だれだ?」と質問していたのが
楽しかったが、いずれにしても、妙に奇をてらった最近の建築でなく、歴史の面影を残す建物で安心できるし、広域避難所としての準備もある。(9/22見学)
(注) 旧校舎は、大正15年(1926年)に建設された。なお、震災復興小学校のうち、建物が現存し小学校または 公共利用がされているものとしては、他にも12程度あり、主力は、1928~30年(昭和3~5年)、アーチ型の窓や門などフランス、ドイツ風のデザインが特徴である。
● 「透谷」 と数寄屋橋
小学校の話ついでに、同じく震災復興小学校の「銀座泰明小学校」に因んで、文人「北村透谷」である。透谷は、数寄屋橋近くの出で、泰明小の出身である。校門のそばには、「島崎藤村 北村透谷 幼き日ここに学ぶ」という石碑もある。ペンネ-ムは、<数寄屋橋→スキヤ→透き谷(や)→「透谷」>が由来だそうだ。
余談になるが、洋菓子の「銀座ウエスト」は、1947年に西銀座のレストランでスタ-トしたため、当初は「GRILL WEST GINZA」、その後、洋菓子の「WEST GINZA」
→現在の「銀座ウエスト」になったといわれている。
● 麗人の定義 杜甫
中央本線の上諏訪を降りて甲州街道を行くと、わずか500mほどの間に、舞姫、麗人、本金、横笛、真澄と5軒もの酒蔵が連なっている。日本酒祭りの日には、確か2000円ほどで共通試飲券(=枡)を購入すれば、いずれの酒蔵でも好きなだけ堪能することができるようだ。特急あずさには「真澄」が積まれていて、
だれでも手軽に飲める有名な日本酒だが、創業200年超の歴史「麗人」の方も
なかなかのものだ。進取の精神があり、最近は焼酎や地ビ-ルも手掛けている。
さて、本論の「麗人の定義」に入る。唐の玄宗皇帝時代=楊貴妃のころに、詩人の杜甫が「麗人行」と題する漢詩を書いており、一部分を抜粋してみる。
“長安水辺多麗人 態濃意遠淑且真 肌理細弐骨肉均 繍羅衣裳照莫春”
<長安の水辺に麗人多し 態濃やか(こまやか)にして意は遠く、淑かつ真、 肌理は細(さい)にして骨肉均しく 繍羅の衣裳は暮春を照らす>、態度も
心根もよく、内容のある真の淑女、肌きめ細かく、太りすぎでも痩せすぎでもない。刺繍を施した衣装、本来派手だが、黄昏の中、控えめに映えているか。
1500年もの昔から、(単なる美人ではない)麗人の定義は変わっていない。
もっとも、この詩は、一世を風靡した楊貴妃一族に対する皮肉という説もある。
● 悪霊退散・お不動さんの真言
かつて、浅草の芸者さんたちに、ベ-ト-ベンの「歓喜の歌」をドイツ語で覚えてもらうため、たとえば「フロイデ」を「風呂・出」のように、日本語の音で近い言葉を当てはめたという話を取り上げたことがある。
「ノ-マク・サンマンダ-」で始まるご真言(マントラ)を覚えるのに、こんな
日本語の音を拾って、忘れるのを防いでいるが、いささか不謹慎だろうか?
“脳膜・散漫だあ、婆沙羅(バサラ)だ 千田(せんだ)・摩訶・露西亜な、
座ったや、糞(うん)垂れたあ、緩慢ん・・・”
話のついでに、日経交遊抄(9/22)から、韓国語のモノと音感のダジャレを。「サンドイッチは?」→ 「パンニ・ハム・ハ・サミダ」 と、感心はできないが…。
● 「東京だよ、おっかさん」
ご存知「島倉千代子さん」の大ヒット曲である。ところが、35回も出場しているNHK紅白歌合戦で、お千代さん、この歌は一度も歌ったことがないという。
「二重橋」の一番に続く二番の歌詞が、戦死した息子(優しかった兄)が
祀られている靖国神社に行くというもので、歌詞のミソは、「桜の下でさぞかし待つだろおっかさん、あれが九段坂、逢ったら泣くでしょ兄さんも」にあるようだ。
なお、新潟日報のコラムは、<紅白で歌わなかったのは、二番の歌詞が影響していたからという話もあるが、本当かどうかは分からない>と言葉を濁す。
● エアコンの県別普及率順位
本当に暑い夏であったが、2014年の総務省調査によると、エアコンの普及率
ランクは、低い方から北海道、岩手、青森と順当なのだが、なんと、長野県が下から第4位の61%、4割の家庭にはエアコンが無いそうである。
信毎は、「夏蚕には風通し第一、何事もお蚕様のお国柄」と分析する。(7/18)
● 映画 「旅情」から
NKKのBS③の映画で、久しぶりにキャサリ-ン・ヘプバ-ンの「旅情」を見た。
宿の女主人が語る名文句「女にとって、年齢(とし)は財産よ」をどういうか、どうやら“In Italy, the age is an asset”)のようだった。 (H30.10.26記)
風に吹かれて( H30年10月号 : サマータイムは嫌いだよ)
英国のエリザベス女王ではないけれど、“アナス・ホリビリス”(annus horribilis = 最悪)だったこの夏の異常気象、猛暑、台風、地震が連発し、まだまだ被害からの復興はほど遠い状況にあります。しかし、非情な季節も
やっと穏やかになり、周囲には秋の気配が漂い始めました。新潟の新大学では、9月29日に田んぼの稲刈り、そして、10月4日には、豊島区の椎名町小学校で、「田んぼと米作りの1年」というテ-マで出前授業をする予定でいます。
さて、10月号は、<リスク・危機への評価・管理・コミュニケ-ション>を取り上げ、社会評論めいた文集になりましたがご容赦ください。(H30.9.27記)
● やはり “ひばり” は天才だ
9月上旬のNHKラジオ深夜便、美空ひばりの歌声が流れて目が覚める。広島平和音楽祭(1974年)で歌われて、その後多くの歌手がカバ-した曲、「一本の鉛筆」で、「ああ、やはり美空ひばりは天才だ」とつくづく感じ入る。横浜での空襲経験とも相まって、この歌は万人を感動させる。松山善三の歌詞もよい。
“一本の鉛筆があれば 私はあなたへの愛を書く 一本の鉛筆があれば
戦争はいやだと私は書く 一本の鉛筆があれば 8月6日の朝と書く
一本の鉛筆があれば 人間のいのちと私は書く”
● オレ、サマータイムは嫌いだ
英語では、「サマ-タイム」のことを、確か、“Day light saving time”という。
緯度が高く夏冬で日照時間に大きな差がある地域において、夏の日長を有効に
活用し(光源としての)ロ-ソクや油の消費量を減らすのが目的だった。だが、いまや電気・石油でエネルギ-は明るさに関係なく大消費の時代なので、その意義は薄く、却って、経済システムの変換や健康への悪影響の方が心配される。
終戦後、いわゆる「サンマ-・タイム」のころの嫌な経験もあるだろうに、2020東京オリンピックの暑さ対策で「サマ-タイム」を提唱したらしい森・元総理、形勢は不利だ。地理的に広範なEUでは、廃止の方向で、米国のカリフォルニアでも、廃止の州民投票が通った。時代にそぐわないのだ。
話は変わって、いまから15年ほど前、電力の需給が厳しくなったことがある。その打開策として「サマ-タイム」が取り上げられた。事務次官会議で、経産次官がわざわざ発言を求め、各省庁にも節電を呼び掛けていたからよく覚えている。そのころのこと、資源エネルギ-庁の幹部が総理官邸を訪れ、K総理に、サマ-タイムの重要性・導入方向について、30分ぐらいであろうか、ご進講をした。最後に、総理は、「オレ、サマ-タイム嫌いだよ」とニベもない返事だ。資源不足でやむを得ず導入した戦後のつらい経験が身に染みていたに違いない。
● 韓国経済の低迷は統計のせいか?
韓国の国家統計局長が更迭され、その会見で、「経済成長の数字でよいものを出せなかったからだと思う。後任者は、上手にやるだろう」と述べたそうだ。
かつての中国でも、2014年の経済成長が7.4%にとどまって、7.5%には達し
なかったとき、国家統計局長が「来年は必ず7%以上にする(数字をつくる?)」と述べたことがあるが、これといい勝負だろう。
こうした国では、国民は政府の発表を信頼せず、異なる数字と目標で行動し、地方政府は数字をねつ造する。「国に政策あれば、地方に対策あり」なのだ。
● 福島原発の「処理水」には丁寧な説明が必要
この世の中に「リスク・ゼロ」はないのだから、①あらかじめのリスク評価(アセスメント)、②生じるリスクの管理(マネ-ジメント)、③リスクに関する
コミュニケ-ションの三者について、異なる組織間で牽制し合い、また、ときには共同して当たってリスクを最小化する、これを「リスクアナリシス」という。
食品の世界では、①は食品安全委、②は農水省、厚労省、③は三者が行う。
原発では、原子力安全委員会と経産省、環境省(規制庁)の関係がこれだ。福島原発「処理水」の海中放流提案では、③の「リスクコミュニケ-ション」が圧倒的に不足しているといわざるを得ない。時間、数値、姿勢、今後の対応策、わかり易さの説明に手間を惜しんではならない。<トリチウム>は、この「処理水」に限らず、一般的には、原発の放流水では取り除けないが悪さもしない、国際的にも問題がないことを焦らずに、根気よく説明する、ほかの汚染物質の濃度とその経過を公開の数値で、リアルタイムに知らせる努力が不可欠である。
水俣病における仕切り網の撤去、BSE牛肉の流通再開、そのいずれの場合も、
具体的な数字によるデ-タ公開、わかり易く十分な時間をかけた説明、そして、安全宣言・対応策というプロセスを経て、水産物、牛肉の需要の回復がある。
● 関空連絡橋へのタンカ-衝突は人災だ
9月中旬、超大型ハリケ-ン「フロ-レンス」に見舞われたアメリカ東海岸、
海軍の艦船は、一斉に港を離れて沖合に進出し、「沖停泊」の態勢に入った。
暴風、高波などの悪天において、船舶は、自らの船および港湾施設に被害を
及ぼさないよう離れた沖に出るのが国際常識である。湾内においても、構築物から少なくとも3マイル=5.5kmは離れなければならない。海上保安庁からも「近づき過ぎている、もっと離れろ」「船が流され始めている、離れろ」と相当前から警告を受けていたにもかかわらず無視をしていたという。<超大型台風直撃→強風&風向の頻繁な変化→走錨の危険>を想像できないとは不思議だ。海保も事情聴取を始めたようだ。マスコミも事実の多角的な報道が求められる。
なお、高潮被害の方は、関空側の怠慢である。空港の用地が1年に10cmは沈下するのが建築上の前提だった。防波堤の嵩上げ・定期的な工事をサボッていたことは大きな責任で、危機への「想像力の欠如」が大きな課題であろう。
風に吹かれて( H30年9月号 : 最近の読書から)
8月14日は「安曇野花火大会」、小雨まじりのためスクリ-ン幅は狭くなるのですが、自宅2階から家内と2人、夜空を飾る2万発をゆっくり鑑賞しました。そして、8月17日、安曇野には一夜にして秋が来ました。朝夕の気温も20℃を切ります。小中学校では早めの新学期が始まり、猛暑とも完全にオサラバです。
報じられるトンダ林警察署の容疑者脱走は、まさにマヌケ四重奏で、一方、周防大島2歳児の生命力、老人ボランテイアの経験から来る捜査力にはホッとしました。(亡くなったものと決めつけたか?)警察、消防、しっかりしろ!
さて、今月号は、9月の声を聞いて「読書の秋」、このところ、読んで印象を深くした本についてのエッセンス・感想などを記します。 (H30.8.28記)
● 2つの不正・不祥事について
新潟日報のコラム(8/8)に石黒忠悳(新潟出身 陸軍軍医総監→日本赤十字社長)が取り上げられていた。
日本初の女医「荻野吟子」の医師免許取得に関し、「女は困る」と拒む政府の衛生局長に対して、「女が医師になってはいけないという条文があるか」「女が
いけないというなら『女は医師になるべからず』と書き入れておくべきだ」と掛け合い、談判したというのだ。この石黒さんは、調べてみると、終戦の時に農商務大臣を務められて、<石黒農政>なる尊敬の足跡を残した農政の大先輩「石黒忠篤」の父親で、<気骨の人>は、誇るべき一族の気風だったのである。
話は変わるが、「東京医科大の不正入試」の第一報を受けた林文部科学大臣のコメントは、事務方が用意した答弁であろうが、「一般的に、女子を不当に差別する入試が行われることは断じて認められない」と、腰が引けて、いただけない。
『一般的に』と『不当に』、『断じて』の同居はあり得ないと思うがどうか。
(一社)日本ボクシング連盟の不祥事は、助成金の不正配分にとどまらない根の深いものだった。なお噴飯ものだったのは、連盟側の弁明=「山根会長の親心から」で、これには、大いなる違和感を感じる。成松選手から160万円を奪っておいて(80万円 x 2人)、つまり、他人のフンドシで相撲を取ったわけだが、仮に「親心サ-ビス」というなら、成松選手には全額を渡し、他の2人には、「会長のポケットマネ-から出す」のが正しいあり方ではなかろうか。
● 福島原発の 「全電源喪失?」
1980年から続いているエネルギ-関係の季刊誌に「ENERGY for the FUTURE」(ナショナルピ-ア-ル社)がある。7月9日号で、前原子力安全推進協会の
理事長をしていた松浦祥次郎さんが、インタビュ-に答える福島原発の記事を
見たが、知られておらず、考えさせる内容でもあったので、抜粋・引用したい。なお、ご本人も「友人から聞いたこと」と語っているので、念を押しておく。
◆ 原子力と再エネの比較
福島事故の時に海上自衛隊の友人から聞いたのですが、海自に艦船に乗せて運べる非常用発電機がいろいろとあるそうです。ですから、指令があれば、
すぐに福島の近くの港に行って、非常用発電機を陸に揚げ、電気を供給できると
いう準備をしていたそうです。しかし、一向にその指示がなく、「何なんだ」と思ったそうです。要するに、自衛隊は災害対応能力がある国家組織として、
国は準備に入れておいてもいいのだと思います。軍事ヘリコプタ-であれば、何十トンというものを運べます。小型発電機くらいであれば簡単に持ってくることができます。平時から縦横無尽にできるような仕組を準備しておくことが可能かどうか、そういうことだと思います。
日本でそれができる専門集団が自衛隊だと思います。自衛隊も国土防衛、
民間防衛の一環として、原子力施設が火急の時に駆けつける仕組みを作って
おいたら良いと思います。(以下略)
さて、これらが事実だとすると、当時の菅直人総理大臣の罪は重いし、その情報をきちんと、かつ、粘り強く進言しなかった関係省庁、官邸スタッフにも大きな責任があるといわなければならない。
ネットワ-クと経験の蓄積・整理・知恵などを有効に活用すべきところが、
「人・組織のあらゆる面で最悪の環境」で起きたのがこの事故だったと考える。
● 「歴史と戦争」 (幻冬舎新書) から
半藤一利さんのこれまでの著作のエッセンスともいうべき珠玉の文章である。2018年3月の初版から5月ですでに6刷、8万部を超えたといわれている。
そのうち、個人的に印象に残った部分の要点は、つぎのとおりである。
① 日露戦争時にロシアにとらわれていた日本兵が、旅順開城後に日本側に引き
渡されたが、東郷司令長官は、<勇ましくあだの港を塞ぎぬる 君のいさをは
千代もつきせじ>と讃えて詠んだ。そこには捕虜の汚名はなく、『戦陣訓』の
「生きて虜囚の辱めを受けず」がいかに非情なものであったかよく分かる。
② 昭和5年当時は民政、政友の2大政党だったが、日本人には、二大政党制は
合っていないのではないかと考えている。相手の政権を倒すために、必ず、
何かしらの勢力(軍部、右翼)と結びつき、しばしば、大衆人気に迎合する。
③ 朝日新聞が描く自社の70年史で、「昭和6年の柳条湖の爆発で準戦時体制に入るとともに新聞社は全て沈黙を余儀なくされた」との記述は間違いであって、商売のため軍部と一緒になって走ったのが事実である。
ジャーナリズムとは、基本的にそういうものなのだ。
④ 昭和16年に陸軍を追い出された石原莞爾は、開戦直後、立命館大学で、次のように予言した。「この戦争は負けますなあ。財布に1000円しかないのに、
1万円の買い物をしようとする。アメリカは、100万円持っていて、1万円の買い物をしている。そんなアメリカと日本が戦って、勝てるわけがない」
⑤ 特攻の総指揮を執った関大尉が、出発前にこういったそうである。「日本も
おしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて・・・しかし、命令
とあれば仕方がない」
⑥ リンゴの唄を歌った並木路子は、東京空襲で自からは九死に一生を得たが、
一緒に隅田川に飛び込んだ母親は遺体となって浮かんだ。父親も南方で殉職、
次兄は千島列島で戦死。たたみかける戦争の傷みを抑えて、彼女は、懸命に明るい声で歌う。これは、徹頭徹尾悲しい歌であると思えてくる。
⑦ 太平洋戦争において陸海軍将兵(軍属を含む)は240万人が戦死した。うち、広義の飢餓による死者は70%に及ぶ。食糧・薬品・弾薬などを補給したく
とも、とても叶わぬお粗末さだった。(大本営の秀才的参謀の机上計算だ)
● 良寛・野の花の歌 (新潟・考古堂刊)
“三大歌人の一人である良寛は、移り変わる季節の自然を愛し、清楚で可憐な
野の花を題材とした歌をたくさん詠んでいます“と、新潟の書店は説明する。 また、もう一つの特徴は、花の水彩画が添えられて、歌と絵がコラボしていることである。気に入った花の歌とその花の由来や理解の仕方に関するちょっと変わった解説(要旨)を書き出してみた。
① 飯乞ふと わが来しかども 春の野に すみれ摘みつつ 時を経にけり
(すみれは春に咲く小さな野の花の総称、イチリンソウ、キクザキイチゲ、
ニリンソウなども含まれていた)
② 鉢の子に すみれ・たむぽぽ こき混ぜて 三世の仏に たてまつりてな
(鉢の子は、托鉢で喜捨を受けるときに用いる小鉢、タンポポは鼓草とも
呼ばれ、鼓の音からの連想といわれる)
③ かく恋ひむと かねて知りせば 忘れ草 道に宿にも 植ゑましものを
(忘れ草は野カンゾウ<キスゲ?>のこと、オレンジの花は次々と咲くが、
一日のうちに散ってしまう。<忘れな草ではない>。根は生薬にもなる)
④ 妙なるや 御法の言に 及ばねば もて来て説かむ 山のくちなし
(クチナシは、実が熟しても裂開しないので「口無し」とも書き、仏教での
「無言」の教えと解する。なお、碁盤の足はクチナシの実を形どったとも
いい、「口出し無用」を意味するとの説がある)
(注)突然だが、映画「旅情」(キャサリン・ヘプバ-ン主演 1952年)では、クチナシが
恋の始まりと別離の<キ-アイテム>に使われていたように記憶している。
話は変わるが、安曇野の曹洞宗「穂高山宗徳寺」には、著名な水墨画家である中村画伯の手になる屏風が残されていて、そこには、花と人との関係を謳った良寛の自由で優しい心根を表した画賛(漢詩とシャクナゲ)が残されている。
“花無心招蝶 蝶無心尋花 花開時蝶来 蝶来時花開
吾亦不知人 人亦不知吾 不知従帝則”
「帝則」(規則)で思い出すのが、3500年前の中国・堯代の「撃壌歌」である。
“日出而作 日入而息 鑿井而飲 耕田而食 帝力干我何有哉”で全文だが、
これを<日出れば作し、日入れば息す>と読んでは味がない。お囃子だから、
<日が出りゃあ働き、沈めば休む、飲みたきゃあ井戸掘り、食べたきゃあ耕す、
天子様などわしゃ知らぬ>といきたいものだ。 (了)
風に吹かれて( H30年8月号 : 東京の変わり地蔵ほか)
暑い毎日が続きます。7月14日に安曇野入り、16日には、白馬・五竜の高山
植物園に足を運んで、家内とともに高原の爽やかな空気のなかで「ヒマラヤの
青いケシ」を見てきました。“good timing”の最盛期、素晴らしいの一語です。
また、新潟・胎内では、全学を挙げて田植えした稲が、姿形は悪いものの、
いまのところは順調に育っています。よく、「日照りに不作なし」ともいいます。
さて、6月末でしたが、久しぶりに糸魚川を訪れ、漁港や漁村の衰退の兆候が著しいなかでも奮戦している方々の活動を実感してきました。新製品の開発と
6次産業化、「フィッシャマンズ・ワ-フ」、建設業関係者や海洋高校とのコラボ、農業と水産業の新たな組合せなど明るい話題も多く、新大学も貢献ができるのではないかと大いに期待しています。
● がんばれ! ハーレー ・ ダビッドソン
トランプ政権の保護主義的な関税引上げに対抗して、EUは報復関税を決定し、
アメリカの誇りである二輪車「ハ-レ-ダビッドソン」の関税は31%になると
発表された。ハ-レ-社は、これを回避するため、海外拠点での生産を増やす対応を決めたところ、トランプ大統領は、ツイッタ-で、まず、「耐えろ」と、引き続いて「やるならやってみろ、終わりの始まりになるぞ!」と、まことに上品な表現でヒ-トアップする。確かに、“悪の連鎖”の始まりかもしれない。
アメリカでのハ-レ-社の評判は、「公正競争を社是とする信念の企業」で、これは聞いた話だが、日本製二輪車(ホンダ、川崎)と激しい競争の1970年代、ハ-レ-社は、米国政府に、「必ず競争力をつけるから、ほんの短期間だけ輸入関税を上げて」と要請した。しばらく後、「暫定関税はもう元に戻してくれてもよい」と政府に申し出て、約束を守ったそうである。<公正な競争は自由主義国家アメリカの建国の精神である>と主張していたころが懐かしい。
さて、ハ-レ-に追随する企業が出るかどうか、ちょっとした見ものである。
● “Lien”に再会
平成25年12月号の「風に吹かれて」“高校出てから50年”で、忘れかけて
いた高校・大学時代のフランス語の例として、“Lien”(絆)と“Rien”(無)の取違えを話題にした。<Lien>については、「確かどこかで聞いた単語だが」とその後も何となく気になっていたのだが、5年が過ぎたいま、その記憶が蘇った。
新潟の大学へ通う新幹線の車中は、絶好の読書の機会であって、ときには、古いものも読み返している。7月から読んでいるのは、「星の王子様」(Le Petit Prince)である。大学2年の時の教科書は「海賊版?」だったが、いまのは、もちろん、新潟駅前のジュンク書店で購入した正規のものだ。
第21章にはこうある。初めて会った狐(renard)に、王子様が「遊ぼうよ」というが、狐は、「飼いならされていないからダメ」と答える。「飼いならす
(apprivoiser)ってどういうこと?」「絆を創る(creer des lien)という
こと、そうすれば、互いにこの世で唯一の存在(unique au monde)になるのさ」
「これだ!」、ここに記憶がつながって、ついに“Lien”(絆) にたどり着く。
(ちなみに、読書中の本、辞書なしで読み進められる対訳版なので、念のため)
● 東京の変わり地蔵
久しぶりの「江戸東京散策」のため、3つのお寺を下見に歩いた。いずれも
文京区にある寺のお地蔵さんが目的で、地下鉄の「春日」または「後楽園」から
「茗荷谷」まで1駅、順にゆっくりと拝観ができる。ここに、由来を略して記す。
なお、これ以外にも、顔のアザが直るという「化粧延命地蔵」(おしろい地蔵-港区の玉鳳寺)、カワラケの皿を頭に何枚もかぶって、首から上の病に効能があるという「焙烙地蔵」(文京区の大円寺)も面白そうだが、またの機会にする。
1 源覚寺(こんにゃく閻魔)の「塩地蔵」
「世の人・歯の悩みを祈る現益あり」「塩地蔵に塩を奉納し小屋にかかる棒
(錫杖)で直したい身体の部分を叩いて、お地蔵様の御利益を授かりましょう」
(下見の日は、丁度、「文京ほうずき市」で、境内は、にぎやかだった)
2 福聚院の「とうがらし地蔵」
「持病の喘息のため医者から止められていた唐辛子を食べて死んでしまった婆さんを憐れんで、近所の人々が地蔵を建立して、唐辛子を供えたところ、
これをお参りすると喘息に苦しむ人に効能があるようになった」(伝通院の隣)
3 林泉寺の「しばられ地蔵」
「願掛けするときに縄で縛り、叶ったときに縄をほどく」「地蔵尊は我が身を
縛られることで病や災難に苦しむものの身代わりとなって、その苦しみを引き受けてくださる」(目下は、お墓の工事中で一時移転の仮住まいだった)
● 脳梗塞の前兆とチェック法
気温が30℃を超えると脳梗塞が増えるというが、健康長寿の願いを込めて、
早期発見・早期治療のための情報を紹介したい。NHK朝のラジオからであるが、慶応大学の高橋准教授が話す「米国開発の方法」だそうである。(FAST法)
F=Face・・・ニ-っと笑って、顔の左右が対称的か?
A=Arm・・・ 手のひらを上にして腕を水平に伸ばして維持する。異常があれば内側へと自然に下がっていく。
S=Speak・・しゃべりは、ゴボゴボ、ロレロレしていないか?
携帯電話で家族や親しい友人に話してチェックする。
T=Time・・・いつ、その症状が出たか、時刻は必ず確認する。
経過時間と治療法のマッチングがとても大事である。
そして、最後に、「軽い症状が出たとき、すぐ改善したからと放っておいてはいけない。その時に、このチェック法を使う」と締めくくった。(H30.7.25記)